官能は武装であり、武装は官能である『官能武装論』(平岡正明)書評
幸か不幸か、ある一つの偶然から、少なからぬ読者が、本書を、松田修の『日本刺青論』と同時期に新刊として手にすることになった。これは書評者にとっては厳しい偶然だった。一体、およそ書評が成立しそうもない二冊を並べておいて――ところで、もちろん平岡正明はいちはやく松田の新刊を紹介書評しているのだが――ひたすらにため息をついてみせるのも一興であるが、さりとて、正眼にかまえて、本書の分析に筆を費やすのもいかにも芸のない仕儀ではなかろうか。けれども一応は芸のない攻め方でいってみよう。
『官能武装論』は濃密な思想で統一された一冊である。いくつかの各論を結合した。それらは、著者の指定をそのまま信じるなら《暴虐、変態、畸形、刺青、官能領域のマルクス主義を楽しんでいただく》ためのものだ。満州国ハルビン貧民街の関東軍による研究文献の解説、トッド・ブラウニング『フリークス』に触発されての座頭市&風太郎忍法帖再論、団鬼六を中枢にしたSM文学論、新宿区役所所員による配転抗議割腹闘争への注釈、岡庭昇『身体と差別』解読を軸にして闇市から刺青まで走破する本書の根幹部分。と並べて、著者は、視野を拡大せよとか発想を転換せよといった類いのことはアピールしていない。楽しんでくれ、と提供しているだけなのだが、ここに卑屈さも倣岸さもない。本来ならばこの楽しませ方の術策を解きほぐしてゆくことに、書評の興味は向くべきだろう。しかし正攻法はここまでにしよう。
《不快が俺の原理だ》と埴谷雄高はいった。全く同じ文脈で、平岡なら「過剰が俺の原理だ」というだろう。いや、もう一段、飛躍してほとんど了解不能に、「愉快が俺の原理だ」というかもしれない。《つづめて云へば俺はこれだけ》と埴谷的には表白できず、「つづめていえないから俺は俺だけ」と叫び出すだろう。もともと平岡において、過剰が、過剰に暴虐的に変態的に畸形的に語られてきたことは、大方の平岡読者が知っていることである。自己演技の騒々しい振幅に比して、自画像の提示は驚くほど少ないのである。たとえ体験がそのまま回想されている形態をとっていてさえそうなのである。しかし自画像はもう少し歪んだ形で、けれどもかなり率直に呈示されている。例は91ページ。
《俺には、健康な肉体に不健全な思想がやどっている。その自覚はだいぶ前からあって、俺自身が観念の過剰さあるいは過激さのある地点でエンターティナーに変わった(後略)》
その前段に、フリークスの本質はエンターティナーとして現出する。そしてそれは、弱者・不具者が蜂起者となる過渡的な媒介項なのだ、という論理が座頭市を通して展開されていた。そして転調して、主語が、市(イチ)から俺(イッヒ)になるのである。この部分は、どうやら、ブラウニングの映画が平岡に「仮面の告白」を用意させた、というふうに読める。そこで初めて、初期映画論集『海を見ていた座頭市』から、『過渡期だよおとっつあんPART1美学篇・エンターテイメントなんちゃって』を経た、著者の一貫性が了解できるのだろう。とはいえ、これは自画像の断片に関してだけのことだ。このいみで、書評者は岡庭解説文にいうところの「ゆめゆめ平岡正明を分ろう とするな」に、ほとんど同意せざるをえない。著者の分りにくさについては、わたしも、いくらかの苦悩はもった。
粗雑な図式を使えば、平岡における煽動者の側面と演技者の側面を、統一して把握できないところに当惑がのこった。むしろ分割してとするべきか。それは不可分に、まるきりの一センテンスに成立してくるようだったから。どちらの側面においてもおそらく過剰なのだ。「至上の愛」を吹くネチャーエフ、革命を教唆するコルトレーン。それらの統一されない勝手気ままな円舞に平岡の像の本質がある。分裂した欲求として発現してくるのなら――モダニストは大方そうした軌跡を描くのだが――了解は容易なのだ。ところが、平岡においては、あきれることに、どちらかの側面が相対的に弱まることはあっても、全く分離することはないのである。陰謀を煽動する弁説家の顔と類をみないアドリブを演じるパワー・プレイヤーの顔は、引きはがすことができないのである。ジョークが空すべりする最悪の局面においても、この二面が不可分であることは当然として、とくに平岡が何かを主張しようとするハイ・ボルテージにおいて、これらが最高に混沌未分であることは知っておくべきである。最高の状態で最高にネチャコルなのである。これは一つの思想の不幸を示すのだが、過剰(フリーク)は蜂起することによってしか自己を解放することができないというテーゼを、すばらしく吹いて(プレイ)みせたとき、同じ思想は至福の愛(ラヴ・オブ・シュープレムス)に転じたといえるのである。
『官能武装論』は平岡のこれまでのテーゼ――帝国主義論、植民地文化論――の中間総括の質をもった一冊である。いわば良き共演者をみつけたとき、著者は最高のインプロヴィゼイションをやてのける。その最適の例だと思える。ここでの共演者は、もちろん岡庭昇なのだが、著者の強さはデュオを演じて、圧倒的に自分を主役に仕立てる力技にあるのだろう。『身体と差別』の解説文を平岡は、いうならばほとんどそれを書き替えるかの欲求で、それも当の対象に匹敵するほどの枚数を費して、書いているのである。更なる返歌はむずかしいと思える。むしろ著者は、ジャズの生理感で共演を書いてみせるので、いつも主役を奪っているのかもしれない。
本書について、マルクス主義の官能が喪われて久しい以上、「官能領域におけるマルクス主義」という虚構がそもそも成り立たないから、全面的に否定するという立場はあるだろう。わたしとしてはそれに対する意見はない。それにはまた異なったステージの議論が必要となるだろう。著者は興味がないというかもしれないが。過渡的であれ、官能は武装であり、武装は官能でなければならない。いずれにしても、ポストモダンの作法でいうなら、「官能と武装」とか〈官能=武装〉とかいうタワゴトにしか回収されまい。そうした安全圏からの「マル=官」無効論などは、平岡も岡庭も共に、激しく拒絶するだろうところのものなのである。
――
図書新聞 1989.3.18
1 件のコメント