成田龍一『「大菩薩峠」論』書評
『大菩薩峠』について、もう書く機会はあるまいと思っていたが、何かとそれは乞われてくるものだ。
与えられた枚数に収まりきらないみたいな不手際になってしまった。
また機会があれば補充してみよう。
最新の『大菩薩峠』全体小説論となる本書のキーワードは帝国である。といってもネグリ&ハートが局地流行モードにしたカサつきの〈帝国〉ではなく、六十数年前にいったん一敗地にまみれた大日本帝国、そして今も二流の格ながら帝国を維持するこの国のことだ。
第一章にかんたんにまとめられていることだが、『大菩薩峠』論はそれ自体の不可解な生命を持つかのごとく、戦後という時代を併走し時折り不気味に浮上してきた。帝国がうねりをみせる時、新たな『大菩薩峠』論が発見される――。作品が状況へと侵犯して、それにだれかが答えるのだ。私流に数えれば二十五冊目の『大菩薩峠』論となる本書にも、帝国の現在は顕著にあらわれている。著者はいう。今日この怪物的テキストは、ポストコロニアルの観点、ならびにポストフェミニズムの観点において、根底的に読み直されねばならないと。その志しやよし。わたしは一人の歴史学者の背後を襲う『大菩薩峠』の巨怪な光芒をみる。作品というより〈歴史〉そのものであるかのような怪物的小説。『大菩薩峠』は大日本帝国と常に同時代に属しながら、それを内破する想像力にあふれていた。解き放つのに後代は数十年を要したのだ。
本書は、鹿野政直や今村仁司による「文学外」の論者によるアプローチと同列にある。著者は先の観点を貫徹するために、登場人物たちが近代小説の尺度からいえば「いささか類型的に描かれている」ことを承知の上で、「その行動とエピソードによって読み解く」プランを立てる。『大菩薩峠』は常識的な小説の許容度をはるかにこえて多くの登場人物を手駒として便宜的に酷使した。彼らは中里の観念の代弁者ではあっても、小説の人物たる血肉に不足する。混沌たる小説マグマをより安定したテキスト文書として解読していく本書の方法と手際に留保をつけたい箇所もいくらか生じた。わたしなどは自分の『大菩薩峠』論において小説として低調なシーンを分析することが難しかったからだ。だが、逆に、そうしたパーツにも均等に目配りする成田の戦術的な「読み」もまた有効であると教えられるところは少なくなかった。
暴力と移動はこの作品の最も明瞭な表象といえる。夥しい登場人物によって反復・循環される移動(流浪)を、成田は躊躇なくディアスポラといいかえる。これは正しい。もはや『大菩薩峠』を漂泊や哀愁などといった甘味で包んで片づけてしまう怠惰な読みは許されないのだ。ディアスポラの異形の者たちはどこをめざすのか。本書では、トポス(場所)、ユートピアと表記されるので若干わかりにくいが、言葉をかえれば、求められるのはコミューン、根拠地だ。異形の者〈フリークス〉は祝祭の場に呼び寄せられ、そこを砦とする。帝国の歪みが彼らフリークスを産み落としたのであり、中里が描こうと試みた(そして挫折した)ユートピア希求とは、異形の者による(帝国の墓堀人としての)決起でなければならない。
もう少し書きたいことはあるけれど、字数が足らない。手短にいって、著者の観点は本書において充全に果たされただろうか。明快に完結しているであろうか。行論は、成田の他の歴史小説論――『夜明け前』論や司馬遼太郎論に比べていくらか硬いように感じる。だがそれは対象テキストからいって当然の結果にすぎない。『大菩薩峠』論は、その本体がそうであるごとく、帝国とともに生きつづけねばならないのだ。本書は、二一世紀初頭的論考の視座を基本的に示し、おそらくそれが永久ディアスポラの終わらない考究であるという疑いえない事実を、論述それ自体によって語りかけた。
週刊読書人2006.12.15
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