子どもたちをよろしく
「子供たちを迷わしてはならない」と、十数年前に、トム・ウェイツは唄った。「子供たちが迷うのに理由はない」と、村上龍は、最新作で書いている。九〇年代型の大不況は全世界を覆い尽くすだろうか。弱者との共生を可能にするような社会をわれわれはつくってこなかった。豊かさが狂いまわった経済成長の時代においてはもちろんのこと、不気味に貧窮が迫ってくるこの時代においてはもっと「弱者への優しさ」は路傍に打ち捨てられるだろう。子供たちはますます行き場を失って、迷いつづけることでしか自己を表明しえなくなる。迷うとは、ここでは成長の一過程を意味していない。実社会の汚濁を幼い生のなかで前倒しするように経験させられることに他ない。
その断面の一つが弱者による弱者狩りだ。「仲間殺し」である。弱者はつねにより弱い環を求め、その部分を攻撃することで幻想的な「勝利」をつかのま得ようとする。弱者同士は見えない環でつながれているから市民社会に安住する眼からは見えてこないのだ。すでに八〇年代初頭に始まっている子供たちによる「野宿者」襲撃事件も、この仲間殺しの一エピソードだ。高度経済成長システムは、能率的に切り捨てられる下層労働の担い手を末端に必要としてきた。そしてその入口に、教育制度から落ちこぼれる子供たちを置き去りにしてきた。――かくして両端がつながり、切り捨てられた者同士が残酷に噛み合うことになる。両端の下層。それを見据える視点とはいかにして獲得できるのか。
北村年子の『「ホームレス」襲撃事件 “弱者いじめ”の連鎖を断つ』(太郎次郎社)は、二年前に大阪で起こった野宿者への傷害致死事件を追って、問題の所在が弱者同士の彷徨える抗争に他ならないことを訴えている。マスコミに報道されたかぎりでの事件の外貌は、もはやありふれた<浮浪者殺し>典型に印象された。著者はそこに最も疎外された者が最も抑圧された者に襲いかかるという資本主義社会の循環構造をみている。この視点は理論的に押さえられたものではなく、直感的なものである。著者が寄せ場や大震災の被災地に痛みをもって関わるなかで獲得したのだろう。扱われているのは個別の事件だが、ここには著者自身の固有のテーマの発見がある。
週刊金曜日 1997.11.14
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