美しき敗北者
『葉山嘉樹日記』 この重要な作品を初めて読んだ。
中野重治による序を転載させていただく。
葉山嘉樹について同時代人の書いた、おそらく最高の文章だ。
中野の文業は、おおむねわたしに反撥しかもたらさなかった。とりわけ葉山について語るときの苦しげな口ごもりには当惑させられた。中野のうちに沈んでいる情念が解きほぐせないまま居丈高に襲いかかってくるようで息苦しかった。自らの主要打撃論の誤ちをストレートに吐露するという作法がこの人にはない。わたしとしては、幾重にも屈折したその文体の本質的なしなやかさを味読するよりも、はるか手前で撥ね返されるのが常だった。
要するに、志賀直哉などもそうだが、中野は敬して遠ざける「文学史的遺物」のひとつでしかなかった。
だが、この文章だけは違う。
真っ直ぐハラにおさまった。
葉山という難破船、漂流者についての愛惜が行間に溢れている。
彼の敗北を《自らあざむかれたが他をあざむかなかった。自らあざむかれた結果を自ら刈り取ったが、他をあざむいて免れて恥なしというところへ行かなかった。》と概括する言葉に、中野自身の「勝利と敗北と」が余すところなく映し取られているようだ。序にかえて 中野重治 葉山の日記が発見され、いよいよそれが出版されると聞いたとき私はよろこんだ。この大きな作家、同時に不幸だった人、特にその不幸の原因に一部分私なぞがかぞえられねばならぬ過去の関係もあって、日記の出版とそれのこまかい研究とを待つ私の気持ちは強かった。実際、この作家は、永続きするその芸術の力の割りに研究されることがすくなかった。質的にも量的にもそれは小さかったと思う。文学評価、文学史上の位置づけということで、葉山が、いわばやや酷な扱いを受けてきたという感じは私のなかに続いてあった。それだけに、恵那地方の人たちの調査、研究とともに、文学史家が新しい角度から葉山の再検討にむかってきたことを一個の私もよろこんで来たしよろこんでいる。日記の発表は、この勢いを一段とすすめるにちがいない。
2005.6
ただ私は、日記の出版についてそれの序を書けと求められてたじろいだ。私はその資格あるものではない。それでも私は、彼から影響を受けたものの一人として、また彼と親しくした時期のあったものの一人として、一つ二つのことは書いておいてよかろうと思う。出過ぎた振舞と取るむきがあるにしても、それはここでは仕方ない。つまり私として、今ここでその種の動きにかまっている積りはない。平林初之輔も死に、青野季吉も死に、前田河広一郎も死に、小堀甚二も死んでしまった。堺利彦も死に、山川均も死んでしまった。そうして、小牧近江も年老い、荒畑寒村も老いた。葉山と非常に親しくした、しかし間もなく政治党派的に彼と対立することになり、しかもその後も、芸術上の血縁関係について葉山に書き送った――この手紙は小林の全集にはいっている――小林多喜二が殺されてからも時がたつ。それならば、私が私なりに気づいてきていることの一つ二つを書きとめるのは、多分許される上に義務でさえもあるだろう。
第一に私は、葉山嘉樹の言葉、文章、表現のことをいいたい。日記の文章を含めてのことになるが、彼の全作品における言葉、彼における日本語の研究ということがもう少し発展させられていいと私は思う。これは、「日記」では、特に家族ぐるみ居候状態でいたときの山村生活、そこに生きていた日本家族主義の言葉としてのとらえ方、同じものの飯場生活場面にもよくあらわれている。はたらきかけの時と受身のときとのちがいがあり、「今夜は酒が無いからセンブリを飲んだ。」といったへんまで行けば言葉が越えられてしまうともいっていい。とにかく、葉山の語彙はやや独立にしらべられていいのではないか。一九二一年、二二年ころの葉山は名古屋で活動していた。「葉山君は思想的には山川均系の人であったが、実際行動においては、むしろアナルコ・サンジカリズムの傾向の強い人であった。その特有の風ぼうと快弁とは労働青年の聞に大きな魅力をもっていて」と書かれたが(『名古屋地方労働運動史』)、ここにいう「快弁」が、言葉の上でだけの問題、岸田国土のかつて触れたエロカンスの問題である範囲をぬけて、日本の現実にたいする葉山の根本態度と、それの言語表現との問題として考えられるべきものというところへ来ることは間ちがいなかろうと思う。「風ぼう」さえも含めて考えていいかも知れない。「風ぼう」はともかく、彼のこの「快弁」は、当時の名古屋地方青年労働者たちの肉体そのものの発した声だったにちがいない。決して灰色であることのできぬ、命の木の葉の金いろの問題がそこに出てあるだろうと私は思う。
しかし第二には、一九二二年頃まで以前と、一九三〇年頃以後との、労働者運動、社会主義運動にたいする日本政府のやり方、態度の急角度変化、兇暴化がここで追跡されるという問題が見られよう。三〇年ころ以後、法律の改廃をも入れて、警察、監獄、刑務所での被告人、服役者の生活はたえがたいものになって行く。名古屋の千種獄内で、葉山が日記を書き文学創作をしたことは、社会主義関係の文献を読むことができた事実とともにその後ぴしゃりと禁じられてくる。エルンスト・トルラーが、ドイツの刑務所から、『イズヴェスチャ』編集局あて直接手紙を書くことができたのなどとの根本的差別が日本問題としてここで眺められてくる。最近の、裁判官、弁護士などにたいする国家権力の側からする下等な抑圧のところまでこれは系図を引いてくる。つまりは人権の問題が、特にも葉山の文章、文字、言葉、口言葉を通してなまなまじく追跡されてくるという問題にここでなるだろう。
第三は、いうまでもなく今度の戦争のことである。そこのところで葉山のたどった道のことである。それがこの日記の最大の中心でもあるだろう。しかしここで、他のある人々と葉山との質のちがいが明らかに取り出される。自らあざむかれたが他をあざむかなかった。自らあざむかれた結果を自ら苅り取ったが、他をあざむいて免れて耽なしというところへ行かなかった。これは、こういう単純な言葉で言いあらわせることではないが、大づかみにそういえる点が非常に重大だろうと私は思う。これには学者、研究者の力をまたねばならない。
馬琴の日記は多くのものをあたえる。啄木の日記は多くのものをあたえる。ここで葉山の日記が、多くの、ある意味でいっそう切実なものを私たちにあたえるだろうとひそかに私は思う。これが保存され、発見される過程で示されたそこばくの人々の苦心に私は感謝する。 一九七〇年十一月
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