4 空中ブランコに乗る子供たち
4 空中ブランコに乗る子供たち 時事通信社 1988.3

前著後半の関心を全面的に引き伸ばした一冊。この本から『エイリアン・ネイションの子供たち』への道すじが、八十年代野崎評論の頂点を形づくった。
その容易に伝達しがたい情念のありかともども、という意味だ。
百十一の短い章がそれぞれリンクを張って、リニアにも読めればジャンプしながらでも読める。ゲームブックの進行を評論にも採用してみた。形式としては新しすぎたのか、あるいは遊びがすぎたのか。読む側の都合はとにかく、こうした書き方は書物の出来にはうまく作用していない。やはり本を書く作業とは、不可逆性の時間を進んでいってこそ、結末に確実なゴールを手に入れられるものだ。それを痛感した。意図するしないにかかわらず、循環構造をていした本のほうが、結論を留保するためのごまかしには適しているからだ。
この本あたりから意識的に、マルクス主義の従属アプローチのキー概念をとりこむようになった。ただし「大人たちは子供たちを低開発する」というイメージ的なとりこみだ。子供たちを犠牲にする社会をとらえるイメージが従属理論の援用によっていっそう明らかになると感じていた。こうした情緒的な「理論武装」がかえって或る種の生真面目な人たちの不興をかったのかもしれない。説得的に語りえたかどうかは別として、考えの基本は変わっていない。
目次 はじめに
1 エイズでイントロダクション
2 悪魔の毒々ポストモダン
3 シミュレーション・ビデオ・ゲーム・エクスプレス
4 レトロと激辛
5 ガジェットの戦後史
6 子供たちをよろしく
終わりに 参考文献
扉にワルター・ベンヤミンの言葉。
《あの恋人たちはその肉体を一度もつかみとることはない、――彼らが戦いのために強くなることは一度もなくても、それがどうしたというのか? ただ希望なき人びとのためにのみ、希望はぼくらに与えられているのだ》
子供たちの自殺は、かれらの商品性の環に素早く組みこまれてしまった。かられの行為は、もし異議申し立てであるのなら却下される必要があった。そしてもし叛乱であるのなら鎮圧される必要があった。だがその事実はない。なかったのだ。これは、異議申し立てや叛乱がなかったことを証明するのではない。支配メカニズムが高度になったことによって、わざわざ却下し鎮圧するという手間をかけるまでもなく、抑圧が効率化しただけなのだ。あなたは子供たちがメトロポリスの世紀末にたいして持っている嫌悪と違和の本能を信じなければならない。もしあなたがあなた自身の身代わり(サクリファイス)でないのならば。消費がいまや視えない強制労働でもあるように、地面に叩きつけられたシャドウ、異星人の死体さながらに、フライイング・チルドレンのメッセージが発されるとして、それが、かれらの最後の〈労働=消費〉である自殺のひとつのシャドウ・ワークであるとしか認められないことほど、残酷で反人間的な非対象化はないのである。


この一冊は、2014.5に電子本につくりかえた。
1980年代のただ中に書かれ、不可思議な予言性をおびたポストモダン文化論を、デジタル版で再生リニューアルする。
豊かな社会の頂点の底に進行する格差の前ぶれ、狂乱する性風俗、ゲーム的世界とリアル感の喪失、暴かれる食品汚染の実態、生活空間の効率的再編成の罠、そして史上最悪(と当時はいわれた)原発メルトダウン事故……。
崩落していく世界にあって、負債を押しつけられる「弱者たち」の群れは、いかにして自己を護るか。
6個のパーツと、111の短い断章によって構成された本書は、なによりデジタル本というフォームに適合する。
コンテンツは読まれるだけではなく、各章パーツの相互連関に注意を向け、適宜、各章をジャンプし参照することをとおして、いっそう明確なイメージに実を結ぶだろう。
デジタル本ならではの横断的リンクを可能にした驚きの「一冊」。
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