2 獣たちに故郷はいらない
進行としては、この本が一冊目になる予定であった。書きあぐねて、途中で『復員文学論』のほうにまわったため、順番が変わった。この本はしかし、二分され、原型をとどめないかたちで後の二つの本に組みこまれた。前半は『北米探偵小説論』の増補決定版に、後半は『大藪春彦伝説』に。
そういうわけで消滅してしまってもあまり未練はない。ただ、プロローグとエピローグの部分のみ、迷子になって置き去りのままだ。その短いページだけにたいして、雑誌に載ったまま消えていく文章に抱くかのような感傷にとらわれる。ライナー・ファスビンダーの『不安と魂』について書いたところなど心残りにひっかかってくる。
目次 序章 総和と消去について
一章 白人種馬男(ホワイト・マッチョ)の考古学(アルケオロジー)
二章 黄色植民地人の憤怒
三章 鯨の腹の中で
四章 棄民子弟たちの戦後
五章 獣たちに故郷はいらない
終章 ふたたび総和と消去について
岡庭昇「時評 五月」より 図書新聞1985.05.11
1947年生れ、野崎六助の書下ろし長編評論『獣たちに故郷はいらない』(田畑書店)は、『幻視するバリケード――復員文学論』に続く力作だ。後者において世代の意味を反語的に問うた野崎は、ここでさらに反語的に、われわれが立つこのニッポンという場を捉え返そうと務めているかに見える。野崎の世代――団塊の世代とも全共闘世代とも通称される――はかつて戦後的既成支配にその行動力を以って問いを突きつけてきたが、すぐ転身をとげ、あまりにもあっけなく高度経済社会の撤退・完成に同行しつつある。私などの世代からすると、むしろかつて類を見ないほどなめらかな商業主義と、屈折亡き浪費の世代にさえ思えるほどだ。その手放しのありように向けて『幻視するバリケード』は、問いの戦線から秩序への復員はほんとうはどこにも見出されていないはすではないか、と批判したのである。同様に『獣たちに故郷はいらい』は、疑われたる自己同一性の場としてのニッポン市民社会を、丸ごと懐疑する位置に立つ。津村喬がかつて口火を切った「在日日本人」というテーマの、各論の地平における実践である。
中心の主題は「総和と消去」だ。《難民メカスにおいても、移民の子ドス・パソスにおいても、その地での生存は、消去という算術に帰着するのではなかったか。加算の不可能性……。その地に生存する根拠を狂おしく求めるけれど、それが見つからないのだ。見つからないこと消去されてあるような生存の条件、これはなんなのか》(野崎)。
日々の生活が、生産が、参加が、総和に向かっているような人々がいる。すくなくとも、そのようにリアルな幻想をもちうる人々がいる(わたしのいい方なら、そこにこそ市民社会という戒厳令下の「市民」という領域がある。)他方、それらがむしろ消去でしかない生存もまた、確実にある。つけ加えつつあるように見える行為が、じつは自己消去でしかないこの背理は、あらわに幻想の統合態であるアメリカにおいて見やすい。そして、《ハードボイルド小説とは、私の欲求では、消去された人間のかたちをあからさまにすることによって、その痕跡から逆立的に総和としての人間を希求する、その希求の激しさを収容した形式である》。ゆえに、まずアメリカン・ハードボイルドが考察されることになり、ついで消去される存在としての在日朝鮮人の文学に論は進む。在日推理作家・麗羅がとりあげられ、《――在日朝鮮人は、探偵小説というアイデンティティ追及の儀式を、もっと大胆に活用するべきである》という魅力的な提言が打ち出される。そこから彼のいう「外地系日本人の文学」がとりだされ――これまでさまざまに彼らに言及してきたわたしは、現にニッポンの外側に住みつづけ、固有な文化を形成する「忘れられた日本人」たちが存在する以上、彼らはあくまで「引き揚げ者の文学」であると思うが、それはさておき――代表的な存在としての大藪春彦が圧倒的な力量を見せて論じ切られる。ここには、かつての窮民革命論さえもが帯びていたロマンのひとかけらも存在しない。ネガティブな存在のなかに、世界は徹底して逆立させられている。『獣たちに故郷はいらない』は、まったく特有なハードボイルド小説論を武器に――いいかえるなら行動を奪われた者の位置に立脚した行動への夢を軸に――刺激的なアンチ・テーゼを現代文学につきつけた、みごとな成果であるとわたしは思う。
さて、テーマを共有しているだけにかえっていいづらいのだが、一言だけ野崎に注文をつけておきたい。この長編が、平岡正明の「大藪春彦」、船戸与一(豊浦志朗)の「階級と物語」、岡庭昇の「フォークナー」という先行する仕事と伴走しつつ、それらにまったくふれていないことじたいは、なんら不満ではない。野崎は自己展開に没頭してい段階にあり、体系的、反省的な叙述は不要であろう。だが、それらをどのような「私」においてのりこえようとしつつあるかが見えてこないのは別問題だ。この書のタイトルは、あきらかに安部公房の引揚げ小説『獣たちは故郷をめざす』への批判的なパロディであろう。そのことで、外地体験からの引揚げもまた、戦後的ニッポンの「枠」への参加に了った戦後思想への痛烈な一矢が放たれている筈である。それはかくあるべきものとして、さて、これら共有された論説のレベルをいったん前提とするべき、じつは自明の結論にほかならないのである。
ベトナム戦争におもむいたアメリカ兵士は、知的判断においても、現実の諸関係においても、たんにそれを避けられなかった人に他ならない、という説がある。あるクラス以上に属し、少し気の利いた人間ならみんな巧妙に逃げてしまったのだ、と。貧困と等義のようにして侵略をおしつけられた人々は、その上にアメリカの悪という記号まで担わされねばならなかった。この事実は、レーガノミクス時代に、ためにする論理として三度しゃぶりつくされようとしているのだが。それはともかく、わたしは野崎六助がこれら共有された、先行する仕事をのりこえる道は、いわば宿命のようにしてベトナム戦争を担った消去の兵士たち――その平時での社会的実存――に立つことを描く他はないと考える。大藪春彦の、無意味の夢に憑かれた、無意味のアクションに賭けられた物語は、「下手であるにもかかわらず意味がある」ようなものではない。それは絶対に下手でなければなかった。大藪の下手な文章に、あまりにもなめらかな文体で意味づけを施す代わりに、むしろもっとぎこちなく、あえて失語することこそがほんとに野崎にふさわしい。無意味の意味づけを、無意味のいわば充実した意味づけへ反転することで、我々の仕事をのりこえてほしいと思う。
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