47 『魂と罪責 ひとつの在日朝鮮人文学論』
47 『魂と罪責 ひとつの在日朝鮮人文学論』

インパクト出版会 2800円 2008.9.15刊 ISBN978-4-7554-0193-0
435ページ 装丁 藤原邦久
さまざまな書評に恵まれたこととは別に、書き終えた直後からより充全なものへと加筆したいといった欲求にとらわれてきた。約800枚の分量だが、いくつかの作品への考察を断念して枚数調整したために生じた不燃焼感だ。増補する機会はめぐってくるのかーー。落ち着かなくなる疑念からいっこうに解放されない。
語りえないものを前にして想い屈してはならない。 四つの原型的な情景から始めよう。 一章 漂流する在日小説 1 イーサン・イーサン 李箱 2 1940年のタクシー・ドライバー 金史良 3 憂愁なる幽囚人生 張赫宙 4 滅び去る者 立原正秋 二章 金嬉老は私だ 「犯罪と在日」もしくは「在日という犯罪」 三章 言語と沈黙 チョソンマルかイルボンマルか 呉林俊 金時鐘 四章 凄愴な夜が暗く鳴り渡る 在日小説の諸相 1 市民・テロリスト・民族英雄 李恢成 2 《半島語すこし吃れる君のため》 金鶴泳 3 幽冥にけむる在日 金石範 4 夜の地の底まで 高史明 5 無名の虜囚たち 鄭承博 6 父の骨片を心臓に 金泰生 7 夢魔のなかから 梁石日 8 猪飼野辺境子守り歌 宗秋月 9 裏切りの耐えられない軽さ 朴重鎬 10 海峡の迷い子 李良枝 11 ポストコロニアルの行方 | 五章 物語としての歴史 1 故国は焦土に帰し 朝鮮戦争はどう語られたか 2 『火山島』とは何か 六章 激しい季節 在日小説の現在 1 父親を殺せ黄金の時に 柳美里『ゴールドラッシュ』 2 永続するテロル 梁石日『死は炎のごとく』 3 植民地小説の逆襲 李殷直『朝鮮の夜明けを求めて』 4 ふたたび言語と沈黙 金石範『満月』 金時鐘『化石の夏』 5 騾馬よ権威を地におろせ 女性文学はどこに 語りえないものを前にして想い屈してはならない。 |

多くの書評が現われた。目に止まったものを記録しておく。
金時鐘 私は何者なのか 朝日新聞2008.11.15 | 対象に肉迫する情熱批評 磯貝治良 東京新聞 2008.10.12 他 |
川村湊 週刊読書人 2008.10.31 | 黄英治 民族時報 2008.12.15 |
週刊金曜日 2008.10.10 ![]() | 出版ニュース 2008.11.中![]() |
周在道 的確・精密な資料の駆使 朝鮮新報 2009.2.9 |
金時鐘 私は何者なのか 朝日新聞2008.11.15
自明のことが気になっている。私は日本に定住している在日朝鮮人で、日本の社会に解け合って暮らしている外国人である。人生の大半をここで過ごしてきたのだから、余生もたぶん、いや間違いなくここで終えることであろう。いわば日本は得心づくの生息の地であるのだが、にもかかわらず根を張って暮らしているという実感は、ほとんどない。祖霊の地がないわけではなく、故国だってすぐそこの海峡の向こうに厳然とあるのに、私は故郷喪失者であり、越境者であり、あるにはある祖国にそれでも行き着けないでいる滞留者である。私は何者か。
このないまぜになった存在理由や、生きがたい世の中を生きてゆく生存葛藤が小説や詩をつくりだす元ともなっている。いわば混沌をかき分けて言葉を発しているのが文学だということだ。私とて詩を書いているひとりなのだから、この手の問い返しは当然の自問ではあるのである。
だからといっていちいち気にかけて日々をすごしているわけではない。衝き動かされる何かがあって、またもや問い返される内奥の問いなのだ。私は図らずもその問いを強いてやまない本に出会ってしまって、このところずつと不安定である。気鋭の論者、野崎六助が書き下ろした『魂と罪責 ーーひとつの在日朝鮮人文学論』 (インパクト出版会 )という骨っぽい評論集のためである。
「ひとつの」というからには、ほかにもまた在日朝鮮人文学論はありうるということでもあるが、果たして「在日朝鮮人文学」は確立されたジャンルだったろうか ? 個々の小説家や詩を書く誰それが論じられることはたしかにあるが、それも大抵は歴史的に民族的に不遇をかこっている在日朝鮮人の文学、という視点で取りざたされるのが相場の評価であった。
ところが『魂と罪責』は何年かけて読みとおしたのか知らないが、在日の書き手たちの作品を満遍なく考察して時代と照合しながら特徴を探りだし、「在日」とは関わりないかのような作品まで引き合いにだして在日朝鮮人文学の全体像を浮かび上がらせている。言いかえれば在日朝鮮人文学は、野崎六助によって初めて文学としての内実と範疇が明かされたともいえるのだ。私ならずとも唸らざるをえない本の、出現である。
在日朝鮮人は故郷喪失者の特質を持つと野崎は言い、故郷喪失者は「底なしの喪失感の埋め合わせに、 <全世界>を外国としてみることで、独創性あふれるヴィジョン」を手にするとも付言する。なんとも自分の想念と体験に似通っていることに驚く。私は自分が在日朝鮮人文学の内の者だとは思ったことがないが、私に取りついている故郷喪失感や、祖国の命運とそれでも兼ね合って生きようとする民族的帰属感は、まったくもって在日する者の独自な思考感覚である。在日朝鮮人文学はやはり、存立するだけの実存をかかえもっている。
在日朝鮮人文学はまた、在日朝鮮人 <日本語 >文学と在日朝鮮人 <日本 >文学とに大別できると彼は分析する。在日朝鮮人 <日本語 >文学は日本語で書かれた外国文学を意味し、自伝性が主要な題材とはならない。それに引きかえ在日朝鮮人 <日本 >文学は自伝性に富んでおり、在日することの受苦的テーマを日本人に向けて発している文学を指している。私なりの読み解きで一部を紹介すれば金石範、梁石日は前者であり、李恢成、柳美里は後者に位置づけられる。これだと得心のいく系統づけとはなる。
それなら私の詩はどちらに属するのだろうと、またもやの自問に駆られる。在日朝鮮人語としての日本語に執着している私にとって、日本語は自己の生成にまつわる言葉でもある。繰り言のように、私の自問は独りごちている。
対象に肉迫する情熱批評 磯貝治良
『魂と罪責 ひとつの在日朝鮮人文学論』
大著である。大著になった正当な理由がある。著者の独特な饒舌は、見なれた情景だろう。長編評論となった理由はそれだけではない。言及された作家・作品の具体が、半端ではない情熱を持って論及されているからだ。金時鐘の詩「見えない町」一編の解読など、その好例、そして圧巻だ。
著者の言説から体熱が伝わってきて、読者は一種快感さえ覚えて巻き込まれる。時に客観的な分析を忘却して、言辞が面映ゆいほど修辞的になる。それは本書の瑕疵か? そうではない。これほど饒舌かつ著者みずからの世界を存分に展開し得た在日朝鮮人文学論は、初登場。以後にあらわれる在日文学論に換気口を開けた。それは表層の感想ではなく、内容の充実に関わっている。
批評対象の作家・作品に日新しさがあるわけではない。網羅的ともいえる。ただし、在日文学論は在日性とその実存を土壌に産まれるという観点に立てば、今日的に興味深い在日論が粗雑なきらいはある。在日文学の世代への論究が通り一遍であること、在日文学の裾野を支える書き手へのまなざしが欠落していることなど、隙間はある。李恢成を論じて『百年の旅人たち』を素通りしているのも隙間だろう。
とはいえ、そんな不満を凌駕して一点突破的に対象に肉迫しているのが、本書の批評戦略だ。金石範『火山島論』などがその典型。
もうーつ。本書は金史良、張赫宙などに在日朝鮮人の原像を求めて始まり、金達寿ら戦後 /解放後在日朝鮮人文学の第一世代とそれに隣接する第二世代のテキストに多く力を注ぐ。批判と共感の区分けも鮮明に。それは現在の在日文学につながる原質を再現する試みであり、二〇〇八年の今、重要な文学的戦略だ。
「小松川事件」の李珍宇、「寸又峡事件」の 金嬉老、朝鮮戦争、「朴正熙狙撃事件」の文世光などが、文学と関わって語られるのは特記に値する。
東京新聞・中日新聞 2008.10.12
西日本新聞・北海道新聞 2008.10.26
川村湊 週刊読書人 2008.10.31
在日朝鮮人文学を論じる時の困難は、その対象の範囲が確定していないことだ。本書の序章にエドワード・サイードの文章が引かれていて、そこに「脱領域的 (エクストラテレストリアル)」という言葉があるが、まさに「故郷喪失者 (エグザイル )」としての在日朝鮮人の文学は、「脱領域的」であり、その領域や輪郭、ジャンルやスタイルもそれぞれ区々なのである。在日朝鮮人文学は、その〃囲い込み〃を拒否する。たとえば、小田実は「日本名で書いている作家は日本文学とみなすべきで、在日文学の対象とするのはおかしい」と語っているが、その言葉に従えば、立原正秋はもとより、深沢夏衣や金城一紀やつかこうへいなども除外されることになり、「在日朝鮮人」の在り方を主題とする多くの (そして重要な )文学作品が排除されることになる。また、いわゆる植民地文学との区分けも厳然とはなされがたく、金史良や張赫宙という存在は、曖昧な領域に押しとどめられることになる。まさに、脱領域的という〝領域”を設定しなければ、それらの文学について論じることが不可能になるのである。
野崎六助の「ひとつの在日朝鮮人文学論 ( 『魂と罪責』の副題 )は、そうした論議より先に、まず在日朝鮮人文学という実質から始める。つまり、金石範の小説や金時鐘の詩という実存 (現実存在 )が、本質に先立っているのだ。日本語で書かれた文学をすべて「日本文学」として繰り込むという日本(語)帝国主義的な発想や、在日朝鮮人文学論の入り口のところで、延々とスコラ的な定義論争を繰り広げる学者 (研究者 )的な思考な別に、現に生存し、存在する「在日朝鮮人」の現実存在から、論を説き起こす。これが最初の、そして最重要な原理である。
それ以降の展開は、野崎六助の独特な批評意識によるものである。たとえば、在日朝鮮人〈日本語〉文学と在日朝鮮人〈日本〉文学との、一見些細な、そして本質的な差異。前者が金石範であり、後者が李恢成であるという説明は、若干短絡的だ。論者はさらに前者は「外国文学」だという。すると、後者は「日本文学」ということになるだろう。きわめて刺激的な物言いだが、〈日本語で書かれた外国文学〉という厄介な〝預域〟を抱え込むことになる批評的なリスクを負わねばならなくなる。
確かに金石範の『火山島』という作品を目の前にすれぱ、そうした言い方をしたくなる気持はわかるが、それは別の批評的難問を負うことにはならないか。たとえば、安倍公房や大江健三郎の一部の作品は〈日本語で書かれた外国文学〉と定義してもよいものだろう。大西巨人や埴谷雄高の大長編小説を思い浮かべてみてもよい。私としては、「日本文学」から「日本語文学」へと〝脱領域〟することが、そうした「非・日本文学」を現前化させる批評的方法であると思うのだが、どうだろうか。
在日朝鮮人文学論として「網羅的」ではないと断っているが、しかし、現在考える範囲できわめて広汎に、公正に (公平に、ではない)それらの文学作品を取り上げていることは敬服に価する。とりわけ、張赫宙の『嗚呼朝鮮』や、李殷直の『朝鮮の夜明けを求めて』などの読みには、裨益されるところが少なくなかった。また、金嬉老や李珍宇の〝事件〟についての 言及も、個々の在日朝鮮人文学者の内的な創作回路を究明するためには有益だったと思える(ただし、前若著『李珍宇ノオ卜』とのトーンの違いには少なからず驚いた )。ただ、望蜀の言をいえぱ、安宇植や尹学準、竹田青嗣などの在日朝鮮人の文芸批評、文学評論の活動についても触れてほしかった。
黄英治 民族時報 2008.12.15
本書は、副題のとおり 「ひとつの在日朝鮮人文学論 」だが、「文学作品として優れたものを選別して論ずるといった方向をとっていない。 (中略)テクストはテクスト。駄作も名作も歴史的価値としては変わらない」として、作家・作品について実に挑発的な批評を提示する。当該の作家、既存の論者、そして読者との間に火花が散るのは、必至だ。
とはいえ、ちらかってはいない。金石範、金時鐘、高史明、梁石日論が、本書の柱をなし、そこに目利きの素材選びさながらに、「有名」「無名」を問わず作家•作品が、壁や、天井、床板となり、かなりユニークな外観、内装の家(作品)に仕上がっている。
火花が散ることを、手短に書こう。第一に、金石範論。これは本書の大黒柱だ。そうなるのは、この作家が、現存の日本語作家のなかでも、その圧倒的な創作力で、すでに別格中の別格であることから、当然なのだが、逆説的に、ではなぜ、金石範はそんな怪物的な作家になつたのか、という問いが生まれる。答え。「カタルシスかない」「終わりのときを見つけられない作者のほの暗い執念」ゆえに、である。〈時制の混乱〉〈終わらない青春〉〈酔いー酩酊〉 <食べることの祝祭 >。日本人の代わりに、血を流させられ続けた朝鮮人の〈恨み〉。 〈亡命作家〉の永遠の宙吊り状態こそが、この作家のつきせぬカの源泉だ。こうした金石範論は、本書の最大の収穫である。
第二に、高史明論。この作家の小説は『夜がときの歩みを暗くするとき』だけだと断ずる。「彼は自伝作家から小説へという、本質的な裂け目を跨ぎ越すことに (中略)失敗したのだといわざるをえない」とは、わたしと本書との間で、最も大きな火花が散った個所。この批評には〈小説の特権化〉という、やっかいな〈文学病〉への感染がある。断言するが、書かれたものは、ある意味、すベて(フィクション・小説)で〈自伝〉だ。それをどう批評するかということだ。同時に、高史明の『闇を喰む』を「自伝的作品」として「小説」の下に位置づけるのは妥当か、という問題もある。ところで、著者の「手厳しい基準」は、高史明に対する高い評価の反映であることも、あわせて記しておく必要がある。
第三に、暴力論。章を設けて「金嬉老は私だ一『犯罪と在日』もしくは『在日という犯罪』を論述するだけでなく、植民地暴カ、戦争、脱植民地化の暴カ、テロル、家庭内暴力、ヤクザ……を、在日朝鮮人という存在の影 (であり、不可分のもの)として、論述した。
第四に、忘れられてはならない作家•作品への論述と批評だ。呉林俊、金泰生への愛惜が、李殷直への厳しい批評が、胸に火を灯す。また女性文学への言及もある。
「素朴にいえば、いったい日本人に在日者の何がわかるのか」「同じ日本の地にあっても、日本人と在日朝鮮人が同一の共同体意識で生きることは金輪際ありえない」
こうした、距離感から本書の論述は、文壇的批評にない魅力がある。
周在道 的確・精密な資料の駆使 朝鮮新報 2009.2.9
いわゆる「在日朝鮮人文学」(以下在日文学と略す)は、06年に全13巻の「〈在日〉文学全集 」(収録作家・詩人50数人)の刊行をもって集成されたが、以前から在日文学の批評も書かれてきた。「始源の光 在日朝鮮人文学論」及び「在日文学論(磯貝治良)、「在日朝鮮人日本語文学論」(林浩治)、「生まれたらそこかふるさと 在日朝鮮人文学論」及び岩波新書「戦後文学を問う」所収の「『在日する者』の文学」(川村湊)、「戦後〈在日〉文学論」(山崎正純)などが代表的である。これらの著作は、概して各著者の朝鮮人観が深く浸潤しており民族と文学、言語と文学の相関関係に迫る評論として一読に価する。中でも30年に渡って「在日朝鮮人作家を読む会」を主宰している磯貝治良の仕事は秀抜である。
本書はこれら先行する著作を斟酌し作品を読み込んで書かれた、430ページに及ぶ浩瀚の書である。著者のアキュリット(的確・精密)な資料の駆使と犀利な作品分析は感嘆に価する。だが、在日文学の研究で最も重要と思えるものは「金嬉老公判対策委員会ニュースである」とするのはどうかと思う。在日文学の重要なテーマの一つが「差別・蔑視・抑圧」にあるのは確かだが、一面的にすぎる。
在日文学者の代表者として金石範と金時鐘を挙げていることに異論がないわけではない。前者の「済州島もの」の評価は大旨うなずけるし、後者の、猪飼野を原点とする詩にこもった在日意識の抽出も説得力がある。ただし、この両者の総聯組織批判の幾編かの作品については、私は評価しない。
柳美里の傑作「八月の果て」を、この作家の最初の「在日小説」としているのは首肯できる。私は彼女が「週刊現代」に書いた共和国紀行を高く評価する。
ここで気になるのは、著者が児童文学賞を受け、すでに日本で広く知られている詩人の李錦玉、李芳世氏ら総聯系の作家たちを一様に評価していないことだ。母国語に精通しながら、日本生まれという利点を生かして、日本語で在日朝鮮人の暮らしや朝鮮の文化を伝えようと長年尽力してきた文学者たちの存在を無視しているのは納得かいかない。
本書は在日文学の作家・詩人論としては説得力がある。しかしヽ在日文学はいかにあるべきかというラジカルな問題については論及が稀薄である。社会的効用性を文学の価値、役割だと考える私としては、在日文学にとって最も大切なのは主題の設定である。私は、たとえ題材主義と批判されようとも、祖国統一を射程距離に捉えて主題を獲得し、在日同胞の現実を、思想から醸される文学精神で直視して、困難な環境のもとで生きる同胞の生に希望をもたらすような文学であらねばならないと考える。
同胞から負わされた責任と課題に応えることこそ在日文学者のレーゾンデートルであることを強調したい。
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