49『日本探偵小説論』
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49『日本探偵小説論』
水声社 4000円 2010.10.01刊 ISBN978-4-89176-801-0
440ページ
雑誌連載時に方向を見いだせず、3分の1を削って、3分の2だけをまとめたさいにも、まだ迷いを引きずっていた痛恨の一冊。要するに、古い図式の文学史的観点を取り入れたところに躓きがあって、日本一国の特殊性を掘りさげるには到らなかった。その限界は、『北米探偵小説論21』から『快楽の仏蘭西探偵小説』へと書き継いでいく過程でいやでも視えてくるものだった。
という意味で、今もっとも改訂版に取りかかりたい著書。
序章 第一章 亂歩変幻 分身ゲームの果てに 1 泥棒にもプロレタリアにもなれず 2 恐ろしき分身ゲームの果てに 3 空の空なる空気男 4 青の時代前史――黒石と綺堂 5 帝国主義下の探偵小説 第二章 天使のいない街 1 モダン都市の前景 2 川端康成における探偵小説未満 3 地震の娘と『浅草紅団』 4 『雪国』への撤退は何を意味するか 5 地震の天使もう一人 6 大震災余話 7 赤いプロレタリアの天使 第三章 夜の放浪者たち 1 江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」 2 地味井平造「煙突奇談」 3 稲垣足穂「瓶詰奇談」 4 大阪圭吉「デパートの絞刑吏」 5 花田清輝「七」 6 尾崎翠『第七官界彷徨』 7 ブラッサイと夜の眼 8 写真家から探偵へ 9 遊民から探偵へ ベンヤミンの天使 10 内田百間、債鬼に追われる放浪者 11 残夢三昧・百間三昧 12 谷崎潤一郎、妻殺しの放浪者 13 谷崎潤一郎『黒白』 14 幻の女に焦がれて 第四章 上海された男たち 1 私には上海が絶対に必要であった。 2 映画のなかの〈上海〉 3 魔都としての上海 | 4 放浪と故郷喪失と帰還と 5 マボロシの上海小説ひとつ 6 金子光晴「芳蘭」とはどういう小説か 7 金子光晴から横光利一へ 8 横光利一『上海』ヴァリアント 9 『上海』その逆流と日本回帰 天使と糞 第五章 放浪の終わり 探偵小説の完成 1 浜尾四郎における昭和十年代前期 2 浜尾四郎「彼が殺したか」 3 木々高太郎と漱石 4 木々高太郎「完全不在証明」 5 木々高太郎『人生の阿呆』 6 探偵小説の形式はいまだ発見されていない 7 木々高太郎「文学少女」 8 木々高太郎『折芦』 9 小栗虫太郎「三重分身者の弁」 10 小栗虫太郎「完全犯罪」 11 小栗虫太郎『黒死館殺人事件』 12 『黒死館殺人事件』とユダヤ人問題 13 小栗虫太郎「寿命帳」 14 小栗虫太郎「白蟻」 第六章 消されたレポート 第七章 彼らの奇妙な戦後 仮の終章として 1 小栗虫太郎「悪霊」 2 久生十蘭『ココニ泉アリ』 3 橘外男『妖花 ユウゼニカ物語』 4 ポストコロニアル小説としての『雪国』 5 ポストコロニアル小説としての『浮雲』 6 江戸川乱歩『ペテン師と空気男』 7 内田百間「東海道刈谷駅」 8 谷崎潤一郎『残虐記』 9 谷崎潤一郎『鍵』 10 橘外男『私は前科者である』 11 野口赫宙『ガン病棟』 |
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千街晶之 日本経済新聞 2010.12.5
著者が雑誌「ミステリマガジン」に約5年間連載していた評論をもとに、大幅な改稿、全体的な構成の見直しによって、雑誌掲載時とは面目を一新させたのが本書である。
扱われている年代は、大正期から戦後十数年はどに至るまでの、決して長いとは言えない期間。紹介されている作品は、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件」のようなメジャー作も幾つかあるにせよ、通常あまり重要視されない作品(例えば江戸川乱歩ならば「恐ろしき錯誤」や『ぺてん師と空気男』など)や、探偵小説の枠内では捉えられてこなかった作品(例えば川端康成の小説群)が大半を占める。そしてそれらの検討によって浮かび上がってくるのは、現在常識化している教科書的・公約数的な探偵小説史とは全く異なる、もうひとつの異貌の探偵小説史だ。
探偵小説は探偵小説としてのみ発展してきたのではなく、他ジャンルの文芸との相互影響や、社会的・政治的状況との関連によって生まれ、変容してきた―― これは当然といえば当然のことなのだが、教科書的な探偵小説史ではそのあたりは見えてこない。だから著者は、その種の常識的見解を退ける。そして、戦時下における探偵作家たちの生き方を改めて検討しようとするが、それは、告発というほど激しい語気をもってなされているわけではなく、むしろ彼らの立場への公正な理解に基づいている。だが、基本的には政治性から中立だった筈の探偵小説がかつて被った敗北を、「戦時下の屏息」という一面的理解によらずに書き記すことで、同じ事態が今後起きかねないという可能性への処方箋を書きとどめておきたいという著者の思いの熱さには圧倒されずにはいられない。
文学が政治に翻弄され、復権の道を開さされた例として、在日朝鮮人作家・野口赫宙に言及した末尾は一見麿突だが、これが「浮いている」という印象のままで今後読み継がれるならば、むしろ著者にとっても私たちにとっても幸いであろう。この章が予言であったと思い当たる時代が、すぐ近くに来ていないとも限らないのだから。
長山靖生「探偵小説の定義自体を揺るがす」 週刊読書人 2010.11.19
探偵小説はきわめて安定したジャンルだと思われている。犯罪事件が起こり、犯行の動機や方法、そして 誰が狙人かという謎を巡って、綿密な捜査や超絶的な思考や幻惑的なペダントリーが繰リ広げられた果てに、驚くべき解答が提示される。もちろん今日までのあいだに芸術性や社会性に優れたミステリも数多く書かれており、またSFやホラーや幻想文学と見紛うジャンル横断的作品もあるが、それでも探偵小説が厳守すべき原理原則は強固だと信じられてきた。
本書は、そのような探偵小説の定義それ自体を揺るがす思考に満ちた、意欲的で画期的な探偵小説論だ。本書が挑むのは、探偵小説という王国を護る城壁を壊し、国土再編をはかる試みだ。したがってその思考は必然的に、文学史総体の枠組みの再検討を迫るものでもある。実際、本書では江戸川乱歩と並んで、谷崎潤一郎や川端康成についても、かなり独創的な創見が提示されている。
といって著者は、殊更に奇抜な説を展開しているわけではない。たとえば日本で本格的な探偵小説が書かれはじめたのは、大正時代のことだというのが定説だ。それは文学丈史的には、自然主義文学・プロレタリア文学・モダニズム文学の三派鼎立時代に相当する。著者はその定説を踏まえたうえで、探偵小説は三派の外側ではなく、それが構成する三角形のなかに位置すると指摘。なるほど探偵小説は基本的にモダンなものだが、捜査現場などの描写は写実的であり、思想的には告発的(プロンタリア文学的)だ。
またモダニズムとの関係で、川喘康成の『浅草紅団』を取り上げ、「探偵小説とは交わることのないモダン都市小説」の世界を求めた作家と規定するが、それ故に探偵小説の心性を浮き影りにする作品として読み解いてみせる。さらに「伊豆の踊り子』『雪国』を「弱者」「地方」といった虐げられた存在を、話者の立つ視点との対比で捉えるという意味で、植民地的小説と看破し、探偵小説とは別系統でありながらも「傍観者の文学」として共謀性をも見出す。
著者は探偵小説の作法は、〈政治的には微温、形式的には完全主義、情緒的には人間不信、内容的には自由主義、歴史的には回帰主義。遊民は政治性から外れたところにいた。フェミニズムからもコミュニズムからも、一定の距離を保っていた〉とするが、それは探偵小説が安全なエンターテイメントだと述べているのではない。むしろ、それでいて社会的にも文学的にも「危険」であることを、本書は明らかにする。浜尾四郎、本々高太郎、小栗虫太郎の作品を論じた第二章では、探損小説的な思考原理が縦横に論じられるが、それは「思考とは何か」「知識とは何か」という思惟への根源的問いをも伴っている。
さらに第七声では戦後探偵小説(ならびに戦後の探偵小説的小説)が論じられるが、それは著者の戦後観・文学観の表出とも読める。興味深い指摘が数多く書かれているが、なかでも、探偵小説が提示する完全犯罪を目指すトリックなどといった個人的なジョークは、戦争という国家規模の愚劣なジョークにこうする術はないという指摘は秀逸だ。そのグロテスクさにおいても残酷さにおいても、探偵小説は国家の醜悪さにかなわない。したがって探偵小説は、逆説的に戦争の愚劣さを、ただその愚劣な創作作品によって暴くジャンルとして存在し得る。乱歩はその本員を見事に掘り当てた、と著者はいう。また谷崎潤一郎の『鍵』を「探偵小説として読まれることによって、より探く理解に達する奇妙な小説」とするが、著者の論旨を読むと、なるほどそれ意外読みようがないという気持ちになってくる。さらに野口赫宙『ガン病棟』という私には未読の小説が登場し、人体の植民地的侵犯の物語として読み解かれる。著者の意図するとおり、探偵小説論としてはもちろん、近代文学論としても重要な問題を提示した記念碑的労作である。
川村湊 東京新聞 2010.11.14
日本の探偵小説を、それ自体の流れだけで考察することには、あまり意味がない。著者は、江戸川乱歩の次に川端康成を論じ、地味井平造や大阪圭吉に続けて、内田百間や谷崎潤一郎を論じる。また、小栗虫太郎の人外魔境ものや橘外男の満洲ものの延長線上に、ポストコロニアル小説として、川端の『雪国』や林芙美子の『浮雲』を取り上げる。日本の探偵小説という枠組みを、思い切って広げて見せたのである。
だが、それはまたとても狭く、短い時空間にひとまずはとどめる。著者は、平野謙の〈昭和・十年前後〉という文学史的仮説を受け入れる。モダニズム文学とプロレタリア文学と私小説の″三派鼎立″がその作業仮説だが、それを「モダン都市小説」と「探偵小説未満」の両極の間にあるものと考え、川端『浅草紅団』や横光利一『上海』、そして金子光晴の上海体験ものが俎上に載せられる。
これらの乱歩、康成、稲垣足穂、百間、潤一郎、浜尾四郎、木々高太郎、虫太郎、久生十蘭などは、まさに〈昭和十年前後 〉にその「モダン都市小説」や「探偵小説未満」、そして探偵小説そのものを書き続けた。それらの作品を読み解けば、日本の探偵小説の「原理考察」と「史的位置づけ」はあらかた整う。著者のそうしたもくろみは、かなりの程度で達成されたと思われる。
ただ、あまりに多くの作家、作品を取り上げたために、一人の作家、ー編の作品については、やや論述の物足りなさを覚えないこともなかった。尾崎翠、村松梢風、花 田清輝、野口赫宙などの作家や、戦時下のいわゆる <暗黒時代>の探偵小説作品にも、もう少し具体的に触れて欲しかったというのは望蜀の言だろうか。それにしても、日本の近代文学の本質を <十年前後>という時間のなかに凝縮してみせた批評の力技は、ただ感嘆する以外にないのである。
谷口基 第2期「文学史を読みかえる」研究会通信 2010.11
表題は概論的にみえるが、本書には〈戦前戦後「探偵小説」的文学史〉と呼ぶべき、実に分厚い世界観が展開されている。野崎氏の狙いを「序」から引用しよう。
「探偵小脱の歴史は探偵小説のみにおいては完結できないのだ。ひとつの投偵小説の原理を分析するためには、多くの周縁作品を参照する必要がある。(中略)探偵小説は探偵小説としてしか語られてこなかった。そこからは、歴史観があらかじめ排除されてしまう。これは探偵小説領域の疾というわけではなく、多くのジャンル別文学史がおちいっている弊害なのだといえる」
つまり、本書は従來の「ジャンル別文学史」に対する公然たる批判、果敢なる挑戦の内容を誇る、画期的な「探偵小説論」であるのだ。黒岩涙香以来の探偵小説作家と作品とを時系列で羅列するようなリニアな歴史観を排除し、江戸川乱歩、川端康成、金子光晴、横光利ーらを同時代的かつ立体的に論じるという姿勢は、まさしく「文学史を読みかえる」思想の実践にほかならない。
そのために、野崎氏は「探偵小説」の定義を行わない。本書にあるのは「探偵小説」と「探偵小説未満」という尺度のみであり、この尺度は対象が乱歩である場合と横光である場合とでは、微妙に異なってくる。前者は文学ジャンルとして特定の時代に存在した名称であり、後者はそれに通じる文学的エッセンスと理解できる (乱歩が提唱し、戦前に流布した「探偵趣味|という用語に近いものであろうか)。この感覚を本書内で随時読み解くことは至難であるが、野崎氏はこれに配慮して、章を追うにしたがってレベルを「初級」から徐々にたかめていくような構成をとっている。当然、第一章は乱歩だ。しかし、乱歩にはじまる日本探偵小説史第二の流行の「前史」に岡本綺堂と大泉黒石を論じる同章は、既成の乱歩論から軽やかに身をかわしながらすすめられる。ここから、都市小説としての探偵小説を論じていく過程に陸続と浮上してくるキーワードもきわめて魅惑的だ。
たとえば第二章から全編を貫くテーマとなる「天使」。川端「浅草紅団」、戸川貞雄「震災異聞」、葉山糸樹「淫売婦」をつなぐ<娼婦→天使>の線は、言うまでもなく敗戦後の田村泰次郎を経て山田風太郎に達するだろう。さらに紹介者は「地震の天使」に絡めて、芥川龍之介「疑惑」や、その本歌取りたる土師清二「白い手の?」を想起した。そして「空中浮遊」。探偵小説好きなら誰もが想起する城昌幸「ジャマイカ氏の実験」をするりとかわして、地味井平造「煙突奇談」、稲垣足穂「瓶誌奇談」の「奇談」二連発を経て大阪圭吉のく本格もの> =「デパートの絞刑吏」に着地した意外性は大きい。また「帽子」によって尾崎翠と花田清輝の「シンクロニティ」を抽出した鮮やかな手際にはまさに〈脱帽>する(「帽子」と「青空」をふたつながらその文学世界におさめた同時代の探偵作家として、渡辺温の存在も忘れられないが)。この文学的快感は、金子光晴の幻の小説と横光利ーの『上海」の隠された関係を指摘した第四章で再び味わうことができるが、もちろん読者の楽しみを奪うような詳細はここに書かない。
他にも探偵小説研究史上はじめて木々高太郎における<漱石残響> を詳細に論じた第五章、橘外男の『私は前科者である』をプレカリアート小説の先蹤とみなす第七章など、読みどころは全編にわたっているが、驚愕すべきは卷末における野口赫宙の『ガン病棟』の分析である。
第七章のキーワードであった「ボストコロニアル」の片鱗を、この不出来な「社会派ミステリー]の手術場面における「ガン」=「植民地」という隠喩に指摘した理由を、野崎氏はこう述べている。「彼の作品は、その価値にはかかわりなく、読まれ、読み返され、 その固有の悲劇と普遍につながる問題とを取り出すべき研究材料であらねばならない」と。この意気に満腔の敬意を表したい。
なお、本書ならびに栗原氏の『わが先行者たち』はともに本研究会会員下平尾直氏の編集によることを、最後にふれておきたい。
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