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児島襄『日本占領』

児島襄『日本占領』

第38回 児島襄『日本占領』

 昭和史もので人気を博する著者による占領側面史。
 文庫版三分冊の大著ではあるが、むしろ「秘史」と呼ぶほうがふさわしい部分も多い。扱われる時期は、一九四八年末までで、占領前期の現代史ドキュメンタリーとなる。
 冒頭シーンは、前線の巡洋艦上での、マッカーサー元帥とアイケルバーガー中将との会話である。彼らが占領軍最高司令官とそのナンバー2として、敗戦国日本へ進駐してくる数ヶ月前の情景だ。ここに明瞭なごとく、本書は、権力中枢の観点に沿うことによって構成された歴史記述である。ジャーナリストの眼は、批判ではなく、権力に同調する方向にはたらいている。
 人間天皇の登場、憲法改正、東京裁判、二・一ゼネスト中止司令、昭電疑獄事件など、占領前期に属するトピックは、いちおうカバーされている。
 ゼネラル・ストライキが禁止されるに到る一連の経過への記述は、次の文章で一段落される。
 《それぞれの想念に相違はあるにせよ、その夜、ときに嗚咽にとぎれる切々とした伊井議長の放送を耳にしたほとんどの日本国民が感得したのは、なによりも占領下の環境の再確認であり、開けようとしても占領軍に閉じられる歴史の扉の音高い響きであったかもしれない》
 格調高い歴史書めいた美文を呈しているのだが、ここは、例外的な逸脱にも読める。全体の格調は、もう少し柔らかく、親しみやすいレベルで一貫している。
 本書は浩瀚な資料探索に基いているが、最も基底的に利用されているのは、アイケルバーガー第八軍司令官の私記だ。日誌、手紙、メモなど。すでに、冒頭シーンに暗示されているようにマッカーサーとその部下アイケルバーガーの確執は顕著なものだったようだ。
 アイケルバーガーは「青い眼の将軍」「ビッグ・チーフ」などと称された複雑な個性の「英雄」の「素顔」を容赦なく暴いている。彼は、バターン・ボーイズと呼ばれたマッカーサーの忠実な部下たちとは異なり、元帥とは一定の距離を保っていたようだ。しかし、マッカーサーとアイケルバーガーの確執といっても、権力闘争に高まるほど深刻なものではなかった。表面化することはなく、GHQ内部の「抗争」ほどの話題性は持たなかったのだろう。
 アイケルバーガーによるマッカーサー批判の要点は、心理的なものにかぎられる。「性格的にあい容れない」というケースだ。その面からいえば、本書は、歴史書というより、時代小説(占領期もすでに時代小説ネタになる歴史だ)的興趣にあふれた気楽な読み物として消費されるにふさわしい。権力のトップに立つ者らが抱える、小人物めいた性格的欠陥をつぶさに観察することは、時代小説読者に許されるささやかな愉しみでもあるからだ。
 本書には、他に、吉田茂や徳田球一などの性格描写をふくむエピソードも点綴されているが、迫力においては一歩ゆずる。いずれも、本書のみが迫る視点といいがたいのだ。
 他に、進駐軍将校の犯罪を報告する「日銀ダイヤ事件」の章や、ロシア系アメリカ人女性の殺人事件にふれた部分(解決までは記されていない)などが、興味を引く。また、兵士の性病罹患率の急増にアイケルバーガーが仰天するくだりもケッサクだ。第八軍衛生部は、兵士千人につき二百七十四人が罹病している(これは、一九四六年三月の数字)ことを確認した。「三人に一人弱」という計算だ。これらの「知られざる」エピソードが、正史的記述にうまく配されているところは、本書の読み物的な値打ちだ。
 しかし、後半、とくにマッカーサーが大統領選挙の準備に入る部分になると、脇道に脱線しすぎるような印象が強くなる。しかも心理描写が長すぎる。
 マッカーサーは予備選の段階で敗れる。彼は、大統領候補として祖国に凱旋する途を断たれたのだ。野望を断たれた元帥は、それを機に、占領日本の「大統領」として日本に君臨しつづけることを決意する。――占領状態を「永遠化」する。己れの権力欲によって、一国の運命を決定せんとした、というわけだ。本書は、その過程を、アイケルバーガーの観察を借りて跡づけていく。彼の眼に映る「将軍」は、なんとも卑小で卑劣な権力亡者にすぎない。
 本書のこのパーツは、袖井林二郎『マッカーサーの二千日』(一九七四年)などに対抗した露骨な「嫌マック本」だ。「青い眼の将軍」を、政治的野望に凝り固まったモンスターとして描きだす「定説」は、一定の影響力を持っているのだろう。それはそれでかまわないけれど、著者がアイケルバーガーという人物の視点に寄り添いすぎているところが気になる。
 初歩的にいって、この人物の主観をも公平に検討する手法が望まれた。そうでなければ、本書の資料的な価値も「将軍の女々しさ」同様に、一方的に矮小化されるしかないだろう。
 本書における(登場人物としての)アイケルバーガーの像は、いかにもアメリカ人っぽい、陽気で人好きのする性格で一貫している。その実、第八軍司令官としての彼は、進駐軍の兵員削減に徹底して批判的だったし、何より(本書にも明記されているとおり)在日朝鮮人のほとんどが「危険な共産主義者」だと信じて疑わない、視野の狭い軍人だったのである。

児島襄『日本占領』 1978.12   文春文庫1-3  1987.8

(2016.11.16執筆)

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