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袖井林二郎『拝啓マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙』

袖井林二郎『拝啓マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙』

第35回 袖井林二郎『拝啓マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙』

 本書は、著者のマッカーサー研究(マッカーサーを中心軸にとった戦後史考察)の第二部にあたる。『マッカーサーの二千日』の続編である。著者自身も、そうした位置づけはしていないので、この点を、最初に注記しておく。『マッカーサーの二千日』を第一部もしくは正編とすれば、本書はそこに盛りきれなかった内容、後からの増補・加筆項目となった考察をまとめた一つながりの続編として読まれるべき労作である。
 次に引用するのは、本書の中公文庫版カバーの紹介文。
 《敗戦による占領開始期から五年間、マッカーサーや総司令部にあてて日本全国から送られた手紙は実に五〇万部を数える。政治家・大学教授・主婦・少女に至るまで、それぞれの立場から思いのたけを書き送り、その内容は、戦勝国へのおもねり、政策建言、個人的な願い事など多岐にわたる。人びとの肉声を伝えるこれらの手紙群は「占領」という時代を証言し、経済大国となった戦後の日本人の原点を浮彫りにする貴重な史料である》
 正直なところ、わたしは、長い間、この本を遠ざけてきた。読まないまま、拒否感だけを募らせていた。五〇万通の「ファンレター」というイメージに、ただただ圧倒されてしまったのだ。一方的にネガティヴな意味合いで……。
 そんな史料が残っているという現実に、日本人(この場合は、親たちの世代)の卑屈な従順さと、恥知らずを感じ取り、いたたまれなくなった。虚心に読もうという気力は、なかなか湧いてこなかったのだ。
 少しページをめくり始めてから、その予断がまったく浅はかな思いこみにすぎなかったことを、わたしは知らされた。
 本書は、ただ手紙をテキストとして再録したものではない。手紙(五〇万通のすべてではないが)を読んだ著者が、それらを配列しなおし、コメントをつけ、占領史という局面の様々の舞台と関連づけた「歴史書」なのである。手紙は主要な素材を提供しているが、本文は、それらをつなぐ著者の手に委ねられている。
 著者のコメントは、手紙の言説内容についてのみのものではない。書かれたという事実、文体から筆跡、執筆用具と使われた用紙、仮名遣いの間違い、署名のあるなし……。様々なカタチを吟味し、その筆者の背景の「全体像」に迫ろうとする。
 一例をあげれば、ある青年の手紙は、日本共産党の入党申込用紙(これ自体、ガリ版の粗末なザラ紙)の裏に綴られていた。そこには、その筆者が共産党への入党を断念し、手紙を書くことを選んだという時代の一シーンが鮮やかに刻まれていた。手紙を史料として「読む」だけでは、こうしたシーンを捉えそこねるだろう。
 本書は『マッカーサーの二千日』の注釈集ともいえるが、そこにとどまらず、手紙の集積・解読という形式をとおした、作品的重量においては、正編と充分に拮抗する続編なのだった。それぞれの手紙は、多くの雑多な筆者たちに属する。だが、書物としての全体を裁量するのは、独裁者としての作者に他ならない。
 単なる研究者では、この仕事は達成できなかったろう。『マッカーサーの二千日』の著者であったからこそ、瞥見したのみでも膨大な量になると思える手紙群から、明快なテーマを、歴史の一端を抽出することが可能だった、と思える。
 ――このように賛辞をつらねると、文体までも、著者がマッカーサーの「絶対君主」としての卓抜した手腕に驚嘆している行文に似てくるようで、困るけれど……。

袖井林二郎『拝啓マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙』大月書店 1985.8

 数字について、注記しておく。五〇万という数字は、GHQの翻訳通訳部隊(ATIS)の文書にある「四一万一八一六通」から概算したもの。もっと多かったのかもしれない。著者が読み得たのは、そのうち一ー二パーセントにすぎない、ということだ。著者も、別の研究者が未読の手紙群に挑戦し、まったく「別の物語」を発見する可能性を否定していない。
 手紙は、直接マッカーサー宛てのものと、それ以外のものがあった。
 《マッカーサーはその性格からして直接自分にあてられた手紙はすべて読まなければおさまらなかった。第一生命ビルのGHQに週七日一年三六五日通いつめるという、彼の猛烈スケジュールのかなりの時間が、こうした手紙を読むことにあてられていたのは確かである。いま米ヴァージニア州ノーフォークにあるマッカーサー記念館の文書庫には、マッカーサーが気に入って自分のファイルに綴りこんだもの約三千五百通が、氏名のABC順に分類されて保存されている》(本書プロローグから)
 総司令部あてのものは、すべて読まれ、重要とみなされたものは全訳された。現在ワシントン郊外のスートランドに保管されている。この二箇所が主要な史料倉庫だということになる。
 本書は、雑誌『思想の科学』一九八三年八月から翌七月まで連載され、八五年に単行本となった。この執筆にも、鶴見俊輔の強力な慫慂があったと、著者は記している。
 後に文庫化され、さらに十年の後、岩波現代文庫に入った。この最新版には、ジョン・ダワーの委曲尽くした解説が付されている。著者は、初版のあとがきに、スートランドで手紙の実物に対面したさいの驚きを回想している。
 ここに保管された関係文書は「総計数千万ページ」……。ジョン・ダワーは《この史料の山のすべてを探検せんとしてついに生きて還らず者ありき》と書いたという。すべてを超人的にリサーチしえたかどうかは別にして、ダワーは生還して、後年『敗北を抱きしめて』を書き、袖井も無事に本書を問うことが出来た。
 敗戦から被占領へ。
 権力の空白期を人びとは通過せねばならなかった。
 そこに落し子となった五〇万通の手紙の意味とは、いったい何なのか。
 わたしもまた占領期の「落とし子」として、この世にひり出されてきた。人は生まれ落ちて死んでいくが、史料は恒久的に残されるのだろう。戦争が終わり、ベビー・ブームが到来する。マッカーサーへの膨大な手紙は、わたしらの世代の大量の「誕生」にも似た「時代の仇花」だったのか。
 考えてみれば、権力者に向けて手紙で訴えるという行為は、日本の民衆がおよそ初めて体験するシステムだった。初めてであるばかりでなく、最後の絶無の機会となったかもしれない。軍国主義という精神的支柱を喪った人びとは、民主主義という新たな教義にすがろうとした。
 ジョン・ダワーの言葉を借りれば、《敗戦によってそれまで信じ込まされてきたほぼすべてのものが、粉々に砕け散った時、日本人は昨日まであしざまにののしってきた敵の総大将に身を寄せ、彼を最善の希望と熱望の卓越したシンボル》に変えた、ということだろうか。
 だが「敵の総大将」は、天皇制を保存する戦略を立て、新たなシステムの創出を(ヒロヒトとともに)勝ち取った。その時マッカーサーは、象徴天皇制の上位(つまり、法皇か、上皇か)、名づけようのない、歴史上かつてなかった超上位・超超上位に立っていたのである。リアルな意味でも象徴的な意味でも――。
 ダワーはその推移を、マックの「カルチュアル・ヒーロー」化と呼んだが、その時マックの下位に甘んじていた「文化英雄」が復活してくる時代については言及しなかった。
 それは、とりもなおさず、本書のページを閉じた後に、その成果の先に問われねばならない事柄なのである。

GHQ資料室 占領を知るための名著・第35回 2017.04.05更新

『占領を知るための10章』第五章下書き (2016.11.18執筆)

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