『「在日朝鮮人文学史」のために』宋恵媛
第22回 『「在日朝鮮人文学史」のために −声なき声のポリフォニー』
宋恵媛〈ソン・ヘウォン〉
本書は、ひとつの苛烈な論断からはじまっている。
——在日朝鮮人文学史は、かつて一度も書かれたことがない。
その理由を、著者は、三点かかげる。
日本文学の一支流として扱われたこと。
朝鮮語作品への無関心と黙殺。
公刊される書籍・雑誌がごく少ないこと。
これは、たんなる列挙ではなく、「何故」という問いと不可分に結びついている。そして、著者の問いかけにひそむ明瞭な抗議の想いを読み取れないとすれば、それは、日本人読者の「精神的欠落」の証左ではあるだろう。
著者は、抗議の感情を抑制して問うている。なぜ在日朝鮮人文学史は成立してこなかったのか、と。この問いは、日本人に向けられたものとしては、もっと激越な抗議をひめている。なぜ「日本人は在日朝鮮人文学という異物を、勝手に日本文学の一支流として囲いこむ伝統」から脱することが出来ないのか、と。
ついで、著者は、文学史的記述を、一九四五年の日本敗戦からはじめ、一九七〇年に終える、と提起する。二五年間という限定は、従来の「在日朝鮮人文学論」の常識からはかけ離れたものだ。著者の立場は、既存の、日本人による「在日朝鮮人文学論」への総否定にあるのだから、こうした挑戦は必然的なものだろう。
終点を一九七〇年前後に置く論拠については、短く要約できないので、紹介するにとどめる。「解放後」を始点とする方法に関していえば、前回にとりあげた『「在日」の精神史』とも共通する認識だ。戦後、占領下において、在日朝鮮人の「歴史」がはじまったとする観点である。
そこに加えて、著者は、戦前の金史良や張赫宙らへの否定的評価を前面に押しだす。それらは、「日本の高等教育を受けた植民地エリートの男性が書いた日本語作品である」という理由で否定されねばならない、と。
この仮説についても、ここでは、紹介にとどめる。
著者の、こうしたゆるぎない立場を証明するように、第一章は「源流としての女性文学史 ——識字・ライティング・文学」となっている。本書のサブタイトル「声なき声のポリフォニー」の、祈りにも似た意味が、最高に響きわたるパーツであり、既成の「在日朝鮮人文学史」の顛倒をもくろむ書物の出発点として、これ以外のテーマはないと思わせる。
ここでは、近代小説のジャンル的成熟に主眼をさだめる「文学史常識」も排除されている。対置されるのは、「近代から取り残された」少数者が原初的にいだく「声」こそが真の文学なのだ、という確信である。「サバルタンは語ることが出来るか」の正当な継承がここにある。
在日女性と話を交わしていて、「在日のオトコにはろくなもんがおれへん」とは、よく耳にする言葉だ。ただ、そうした気概を証明するに足る作品が、在日の女性によって送り出されてくることは、ごく稀なのだ。このことのアンバランスは、いつもわたしを不安にさせた。
たとえば、アフリカ系アメリカ人文学でいえば、トニ・モリスンのような存在を、在日朝鮮人女性文学に求めることは、それ自体、エリート的で男権権威主義的(余計なお世話の)観点にすぎないのだろうか。モリスンはアメリカ黒人として初のノーベル文学賞受賞者だったが、昨年(2015年)の同賞は、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』に贈られた。
アレクシエーヴィチは創作家というより、ジャーナリストであり、『戦争は女の顔をしていない』も膨大な聞き書きの集積だが、インタヴュー集でありながら、ロシア文学の総和ともいえる豊穣で奥深いメッセージを伝えてくる。まさに「声なき声のポリフォニー」が奇跡的に鳴り響く作品なのだ。
つまるところ『「在日朝鮮人文学史」のために ——声なき声のポリフォニー』が抱懐するイメージのひとつは、こうした作品を、在日のなかから実現させるところにあるのだろう。そう考えれば、納得する。本書の挑発的な衝撃にも、なんとか持ちこたえることができそうだ。
章はつづき、密航者(亡命者)による文学という項目もある。事例の知識は貧弱でしかないが、この観点なら、どうにか想像力がとどく。しかし、大村収容所内で出された文芸誌という事実発掘には、しんそこ驚いた。無恥を恥じるだけで、無知について恥じないのでは、まったく典型的な日本人であるしかないだろう。
今回、読者は「占領をめぐる名著」というテーマから外れているのでは、といぶかるかもしれない。だが、本書の著者のいう「在日朝鮮人文学史」の不成立がどこから発したのか、繰り返し考えていただきたい。それは、日本の戦後史を一国の枠内のみでとらえようとする怠惰な精神から来る。占領研究の盲点もまた、同じところに源流を持つ。
昭和十五年(一九四〇年)前後、つまり植民地時代に、若き金素雲が登場し、北原白秋らの絶賛を受けた。文学史的には、一種の「朝鮮ブーム」として記録される事例があった。日本人による在日朝鮮人文学論は、数十年のさまざまな体験を蓄積し、また、左翼(文学)的なモラルという誠実な「ミソギ」を前面に出したとしても、畢竟、北原らが示したような「植民地の旦那」そのものの傲慢な姿勢を、相変わらず振りまいているのではないか——。もちろん、本書に、そのような無作法な「本音」が明示的に書かれているわけではないが、行間に隠されたポリフォニーの一声からは、たしかにその言葉が聞こえてくるのだ。
例によって蛇足をひとつ。
金達寿への否定の仕方に疑問が残った。批判的評価については、べつに異論はない。ただ、その論証の手つきが緻密さを欠く。否定のために都合のいい文献をお手軽に引用してきたふうにしか読めない。「日本人左翼」に儀礼的な謝意を示した発言を引くのみで、彼の文学の本質が「時代におもねる」ものだったと断定するのは、いくらなんでも粗雑すぎて、『男流文学論』の露骨なイデオロギー性をみるようで、残念である。
GHQ資料室 占領を知るための名著・第22回 2016.09.15更新
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