『占領と文学』二冊
第11回 『占領と文学』二冊
占領期の日本人を知るための基本的な書物に、ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』がある。(本連載の3回、4回参照) 戦後50数年にして出現したこの歴史的日本人論は、広く読まれ、この見解に異をとなえることは困難なようにも思われる。
「誇りをもって故国の悲惨な状況を耐えた一民族」というダワー史観の当否はともあれ、このことは、かえって、当の日本人自身による(占領期の)歴史省察の浅はかさ、もっといえば、その放棄(歴史的無知という民族特性?)をあぶり出してしまうのではなかろうか。
ここに、『占領と文学』と題された二著を紹介する。どちらも「オキュパイド・ジャパンの文学」を特化して研究したものではない。そのことが、逆に、日本占領と戦後文学という研究視角の決定的な立ち遅れを証明しているようだ。
『占領と文学』「占領と文学」編集委員会編は、1991年11月、沖縄県那覇市で開催された国際シンポジウムの記録からなる。
時の県知事が挨拶に立ったことにも明らかなように、研究の焦点は「占領された沖縄」にあった。他には、アジア太平洋圏からの参加者が主だった。これは、旧大日本帝国による占領を反映したものだった。最初に立ったグァムからの発言者は、日本軍統治の苛酷さについて訴えた。
「被占領と文学」というテーマは、外に弾きだされる。沖縄の置かれた被害者状況が中心点となり、逆に、「本国」の状況は少なくしか話題に入ってこないのだ。
わずかに、アフリカ系アメリカ人の発言者による、日本の戦後小説にあらわれた黒人像のステロタイプに関しての痛烈な批評が、占領期小説の決定的な「後進性」を暴いた。黒人はまず勝利国の兵士として、日本人の前に、その「巨大で真っ黒な」体躯で登場してきた。日本人の眼に彼らは「異様な怪物」として映った。そしてその素朴な「偏見」は、いくつかの戦後小説に特徴的な描写を残している。それは、アメリカ本国における黒人差別をそっくりそのまま無邪気に「受け継ぐ」ものだった……と。
この本のテーマは多岐にわたり、ともすれば文学から離れていく傾向がある。
近接した問題意識をもち、同じ出版社による『植民地と文学』がある。
『占領と文学』浦田義和も、基本的には、このシンポジウムの方向にそった研究論文集だ。
多くのページは、旧日帝の占領下にあった文学にさかれている。「日本占領下の文学」とでも明記されていたほうがわかりやすい。
沖縄の戦後文学について一章あてられているが、全般的な考察にはなっていない。物足りなさは否定しようがない。
以上、紹介としては、まったく愛想のないものになってしまった。このことは、やはり、「占領と文学」という大テーマが、いまだ途上の入口あたりにしか成熟していない現状(戦後70年とはいえ)を、如実に映しているような気がする。
GHQ資料室 占領を知るための名著・第11回2016.03.15更新
『占領を知るための10章』第八章下書き (2015.12.03執筆)
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