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戦後史の終わりと在日朝鮮人文学

戦後史の終わりと在日朝鮮人文学


 われわれの現代史はいまだに空白の黒点をかかえて蠢いている。戦後五十年の総括は、五十年の時点からわずかにずれて完成した二つの作品によって、つけられた。二つの作品とは、金石範の『火山島』と梁石日の『血と骨』である。あるいは、総括への問題提起がなされたのみ、と悲観的に記しておくほうがいいのかもしれない。これはもちろん、日本の戦後史に限定しての議論なのだが、だからといって、同時に、二作品が在日朝鮮人文学の到達点を示していることを看過するわけにはいかない。のみならず、到達点を何か未来を指し示すものとして考えることもまた不正確といわざるをえないだろう。在日朝鮮人文学がマイノリティ文学としての共通の軌跡をこれから辿っていくのなら、緩やかな「消滅」の道を進むだろうと予想される。これは二作品が極点をつくったという事実と背反しないし、むしろそれ以前から不可避に進行していた多様化の方向であると思われる。
 『火山島』『血と骨』。しかしこれらは、日本人一般の歴史意識(むしろその完璧に近い欠如といったほうが正確だろうか)とほとんど触れてこない世界を徹底して追求した。では二作品は主に、在日朝鮮人と祖国の朝鮮民族に向かって書かれたのか。その答えも否である。歴史と民族に関わるメッセージが、両国の双方に向けて発されながらも、その双方から黙殺されかねない危うい位置。それは在日朝鮮人文学が一貫して負わされてきた困難な基盤であった。
 片方は、ある地域の抹殺された歴史をただ小説のなかだけにおいて復元しようとする絶望的な試みに挑戦した記録であり、片方は、自分個人の父親と母親から連なってくる民族の血と骨を己れのいっさいの実存において贖おうとした報告である、という対照をみせつつ、同様に一つのことを日本社会に要求していた。
 偶然的にも、作品の完成に先立って、五十年の歳月の堆積としての戦後は、最終的に終焉した。戦後日本をどう総括するかという設問はこれまでも盛んになされてきたし、五十年の節目にも花咲いたわけだが、それらが有効だったかについて、あまり積極的な評価はくだせないだろう。確実にいえることは、今後いっさいこうした議論はまとまっては起こってこないのではないかという見通しだ。とりわけ日本人に課された懸案事項が、マイノリティ民族によって本質的になされたという事実は、われわれの戦後史概念の不充分さを暴いている。われわれは粛然としなければならないだろう。
 しかし、その欠落を追求することは、この小文の意図ではない。
 さきに、在日朝鮮人文学の達成は、同時にその拡散化過程を阻むことができないという認識を示した。これはべつだん奇を衒った議論ではない。ある国におけるマイノリティ文学はおおむね三世代以上は存続できないし、事実しなかった。主要に、アメリカ合州国における種々のマイノリティ文学の事例から考えてみれば、ユダヤ系アメリカ人文学にしろ、アフリカ系アメリカ人文学にしろ、厳しく急激な軌跡を描きながらも、永続的なイメージからは疎外されている。その意味でいえば、『火山島』と『血と骨』という二作の成立は、在日朝鮮人文学というカテゴリの終わり、その最高段階における終幕を象徴する事件だったとも認めなければならないのではないか。
 人間の生とは、子を産み、育て、子に背かれ、その不当な背反を、かつて己れが親を呪った行為の再生産として愕然と知るところに、ある種の普遍を見出す。市民階級にとってはおよそ月並みな回路を取るだろう、こうした連鎖の体験はしかし、マイノリティ民族の日常にあってはしばしば凄まじい惨劇をつくりだす。親の世代の歴史体験は子の世代に容易には伝わらないし、歴史体験の断絶が発現する場がそれぞれ個別の家庭でしかなかったとき、その家庭は恐るべき実験場とならざるをえないのである。マイノリティ社会にあって、最初に異国(植民地宗主国)に根づこうとする家父長の苦闘は、絶対的な孤独に彩られている。在日朝鮮人文学にあって、固有なイメージとして化け物のような暴力的家父長が現われては去っていくことは、世代対立の表われと理解できるが、それだけ父子の対決が避けられない日常としてあったことを示している。血肉の愛憎に包まれた家庭のなかに、突如として亀裂をひろげる、帝国主義本国と植民地問題の抽象性に正しく対処できる人間などいない。そして多くの在日朝鮮人作家にとって、文学的テーマとは選び取る自由のあるものではなく、血を吐くような体験の意味の解明としてあらかじめ決定されていたといえるだろう。文学的には父親像であるが、それは子の世代によって相対化された親の歴史体験の把握である。子は理解したのではなく、たんに歴史の断絶を露呈しただけかもしれない。
 プロレタリア文学末期に登場した張赫宙や金史良を先駆者ととらえるなら、すでに七十年の歳月がこの領域に流れた。在日朝鮮人による固有の、そして困難きわまりない民族主義の追跡を、この歳月は均質ではありえなかったにしても、実現してきた。今日この時点において、このものが多様化の拡散過程にあると認定するからといって、多くの担い手たちの非力を訴追するつもりはまったくない。民族意識の希薄化、歴史体験の風化。時という残酷な装置はだれをも見逃さない。すでに家父長の像を描ききるために七転八倒した世代の書き手たちは、退場していくか、老境に入ろうとしている。あるいは彼ら自身がかつての家父長の位置に移行している事実に直面することになる。


 在日朝鮮人文学における、避けがたい呪わしいテーマは、父親殺しだった。過去形で述べることは論者に多大な圧迫をもたらせるが、あえてそれを選ぶ。『血と骨』が様式的な物語であるのは、このテーマに正対して向かい合ったからであり、作者が最初から様式を描こうとしたことを意味しない。この作品の一方の主人公によって、豊富なモデル的要素を備えながらも、作者が一貫して正確に造型しようとして果たさなかったところの、固有の在日朝鮮人像<ザ・マン>が成立したといえる。この男は視えない。「視えない人間」(インヴィジブル・マン)だったのである。リチャード・ライトはアフリカ系アメリカ人の物語を書くにあたって、同胞のうちで最も弄劣で卑屈な人間タイプ主人公に選んで『アメリカの息子』(ネイティヴ・サン)を創作した。けちな犯罪を犯し、白人娘を死にいたらしめ、もっと悪いことに同胞の娘を殺して、死刑に処せられる男。ライトは彼の容貌をも獣じみた醜さに描かねば気が済まなかった。古びたプロレタリア抗議文学の遺物とされるこの作品はしかし、いまだにアフリカ系アメリカ人文学における最高の作品である。
 「視えない人間」を追い求めた在日朝鮮人文学の原型を最も悲痛に残しているのは金鶴泳文学だといえよう。おまけにこの評価には、作者金自身の自殺による文学的決着が付け加えられている。こう書くからといって、金鶴泳の仕事を不充分なテキストの集積としておとしめるつもりは、論者にはない。むしろ逆である。自死はその文学の完成では毛頭なく、ただたんに途上の無念を貼りつかせるシルエットにすぎない。金鶴泳が書きえたかもしれない、到達しえたかもしれない充全な作品を夢想するとき、あらためて在日朝鮮人文学の原型について考えさせられる。その無念がいたずらに費やされたと考えるのは不当な誤解である。
 同様の観点に立つなら、『血と骨』にいたるまでの梁石日の作品的苦衷もやはり、在日朝鮮人文学特有の光と影とを背負っていることが瞭然であるだろう。ここでは議論をわかりやすくするために、故意に梁石日文学の展開を一面化して述べることをお断わりしておく。不足は後の論旨によって補われるはずだ。梁石日の作品に見え隠れする「視えない人間」の像は、すでに『狂躁曲』から鮮烈に投げ出されていた。父親はいつも怪物的であり、トリックスターとして、小説中の人物だけでなく、小説世界の均衡すらも、陽気な暴力性をもって粉砕してしまうのだが、像としてはいつも途上にいたのである。たとえは悪いが、成仏できない亡霊がいつどこでも暴れこんでくる権利を留保するかのように「視えない人間」は闊達だった。闊達すぎたのである。いつでも半身以上には視えないのにもかかわらず、現われているのはその全身だ。不当な力を備えた人物にたいして作者が統括力を示していたとはいいがたかった。
 『血と骨』があまりに絶賛の嵐に包まれてしまった(このこと自体は問題にしても仕方がない)ので、つい看過されているが、指摘しておかねばならないことがある。――父親像への不本意な接近という原型は、在日朝鮮人文学が帝国主義本国人の日本語小説の近代的な伝統の影響と無縁に自己形成することができなかったという事実を示しているだろう。そのことは、在日朝鮮人文学が日本語を使用し、日本文学のローカリティの一部門として現象している事実をも思い出させる。あまりに空疎な絶賛は認識を曇らせる。もっとも、こう指摘したからといって、何も進歩があるわけではないが。
 父と子の対立と和解、それは確かに日本近代文学史においても重大なテーマだった。在日朝鮮人文学が持っている個々の日本文学からの影響項目とは、興味ある研究課題であるだろう。論者に、『文化と帝国主義』をものしたエドワード・サイードほどの学殖と才能が備わっていれば、挑戦してみてもいい事柄である。
 父親が持つのは母国語であり、子が学ぶことになるのは、必然的に本国の言葉だ。しかし何故、言語は母なるものであるのか。言語があくまで「マザーズ・タング」と表出されるのであれば、そもそも文学が成立する根底から父子の対立は宿命づけられている。しかも母国語ではない言葉によって自らのアイデンティティの検証を強いられる子の選択は、母親の否定でもあらざるをえない。
 父と子の対立が家庭というごく個人的な磁場においてのみ先鋭化し、その緩衝地帯を与えるはずの社会性を持ちえなかったケースを、在日朝鮮人の歴史は多く強いられてきた。世代対立はその一般性への通路を許されず、閉ざされた在日社会においてのみ考えられてきたように思う。在日朝鮮人の問題もまた一般的なマイノリティ問題に還元しえない特殊性に規定されている。
 じつのところ「父親殺し」というテーゼを論証抜きに使ってきたが、この点の検討が、さきに進むにあたって不可欠のようだ。フロイトは、今世紀の文芸批評の全般に君臨するような勢いでこう断言している。――論文「ドストエフスキーと父親殺し」一九二八年。

  古今を通じての文学の三大傑作が、同一のテーマ、 すなわち父親殺しを取り扱っているのはどうやら偶然 の一致ではないように思われる。ソフォクレスの『エ ディプス王』、シェイクスピアの『ハムレット』、ド ストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、これらの 三つの作品においては、父親殺しの動機、すなわち女 性をめぐる性的な競争もまたはっきり示されている。 (中略)
  (ドストエフスキーは)その生涯の最後にいたって 初めてもっとも原初的な型の犯罪人、すなわち父親を 殺害した男に戻ったのであり、この男の物語を通じて、 文学者にふさわしい自己告白を試みたのである。

 フロイトによる理論、いや、フロイトによる文芸批評の一編「ドストエフスキーと父親殺し」ははたして普遍的な命題なのであろうか、というのがここでの疑問点である。フロイトが精神分析理論を普遍科学としてうちたてようとしたことはつとに知られている。また精神分析への批判を、その批判者の反ユダヤ主義に結びつけて受け取る傾向があったとする書物もある。ヨーロッパのユダヤ人の家父長的家族に育ったフロイトが、まずドイツの精神医学との対立によって理論形成をしていったのは事実だろう。詳しい論証は割愛するが、フロイト理論がそのユダヤ人性(ここでの論点に添えば、マイノリティ性)を色濃く反映したものだったという仮説には魅かれるところがある。強固な普遍性への希求が、国を持たないユダヤ人の疎外感からきていたのだとすれば、その理解も自ずと変わるだろう。わたしには、フロイトのいう父親殺しが世界文学的な普遍テーマであるというより、世界文学というステージにあるマイノリティ文学に顕著なきわめて周縁的な(と注釈をつけたうえでの)限定的な普遍性であると思えてならない。
 といって見当はずれなら、次のようにいい直そう。
 父親殺しという命題は先進国文学においては主要な役割を終え、マイノリティ文学においてのみ呪わしく現われてくるのだと。


 だが従来の在日朝鮮人文学が、一般的な日本人の多くに習慣として読まれてこなかったことは、否定しようもない事実である。とくに『火山島』に関しては、ごくつまらない反応にすぎないとはいえ、その思いは強かった。済州島蜂起という消された歴史を回復せんと試みた全体小説であり、文学による歴史の復元である。にもかかわらずその長さが読者の前に絶壁のように立ちはだかっている。(なおこの小説に関する野崎の情念の半分ほどは『レヴィジオン』一号の「金石範のマジック・リアリズム」に吐露しているので、ここでは繰り返さない)。
 『火山島』の長さは、戦後文学の最大の問題作『青年の環』八千枚を軽く凌駕し、近代日本文学最高最大の小説『大菩薩峠』一万五千枚にかなり迫るほど長い。あまりに長い小説はそれだけが話題になるだけに終わり、読み通せなくても当たり前とみなされる。『火山島』も、完成されてすぐ、そのような作品となった。『大菩薩峠』を途中で挫折したという話はよくよく耳にするが、同様には『火山島』が話題になることはない。この作品を読まれざる傑作とするのは不当すぎるように思うのだが。
 二つを並べた以上、どうしても比較することになってしまうが、『血と骨』は非常に多くの読者を持った。日本の最も高名な文学賞がこれに与えられていれば(前作『夜を賭けて』と同じく、不明快な理由で逸賞した)もっとさらに多くの注目を得ただろう。誤解のないように書いておくが、在日朝鮮人のなかで大衆的な人気作家がいなかったというわけではない。だが彼らの作品はさまざまな観点から重要な議論を提供するとはいえないので、ここではふれない。あくまで在日朝鮮人文学としての要件を備えた作品として『血と骨』は最大の読者を持ったといえるのである。
 『血と骨』を大衆的であると規定しても作品を否定したことにはならないだろうが、その大衆性の要因は二つ考えられる。やはり、その「自伝性」と「父をモデルにした主人公」の鮮烈な像の描破とだろう。自伝性と作者の父親をモデルにした主人公とは、括弧でくくったように、誤った作品の読み方であるが、こうした誤解に従って小説が俗世間に通有していくことは否定できないので、いちおう記しておく。あくまで『血と骨』はフィクションだが、フィクション以上の書き手の真実があると読者に勝手に思いこませることも、その作品の付加価値だろう。事態は作品の真価とはべつのところで動いていくこともまた、作品の持つ「社会性」なのである。
 これが、在日朝鮮人文学の背負った父親殺しのテーマの完成であることは繰り返さない。「父をモデルにした主人公」金俊平の人間像の破格さは、この小説が反響を呼んだ一つの要因となっている。しかしモデル問題もあいまって、この点が作品論として充分に解明されたとは思えない。それをこの機会に少し追いかけてみよう。金俊平は父親という規範からも、この小説においては脱している。では彼は何者か。
 在日朝鮮人のはぐれ者。道を誤った者。極道。アウトロウである。在日朝鮮人が戦後日本社会においてやくざとなるケースが少なくないことは、常識と化してはいるが、あまり大っぴらには公言できない事柄だ。差別がアウトロウをつくるという議論もよく耳にする。在日朝鮮人文学は、大筋においてこうしたアウトロウを素材にすることを回避してきたといえる。言葉を強めれば、拒否してきた、となる。股旅やくざは、戦前から、大衆小説にとっては必須のキャラクターだった。求道するものが純文学であれば、こうした半端者は文学的形象化の対象にはならない。結果として在日朝鮮人文学もまた、道を誤った者を排除して作品を成立させていった。在日朝鮮人文学にとって、同胞のアウトロウは、もともと対象から外れる存在だったのだろう。議論の順序としては、このような常識を単独に破ったものこそ梁石日の一連の小説だったという解釈につながっていく。
 『血と骨』の前半、金俊平は腕利きの蒲鉾職人として登場してくる。寡黙、狷介、粗暴。おまけに大きすぎる体躯、怪異な容貌。まったく内面を表わさない。ハードボイルドそのままのキャラクターである。ダシール・ハメットに始まるハードボイルドと日本の長谷川伸に代表される股旅ものは微妙なシンクロニシティを持っている。金俊平のキャラクターはそのどちらにも似ているが、同じ意味で、どちらにも似ていない。遊女を身請け、裏切られ、賭場を荒らしてやくざと単身、大立ち回りをやってのける。徹底したエゴの欲望のもと女をレイプし、妻にする。そしてつくった家庭は彼にいくばくの安楽すらもたらさない。かえって彼を疎外する環境を新たに増やす結果にしかならない。このようにたたみかけられる主人公の行動は、ともすればストーリーの起伏を大衆小説的な波乱万丈の筋立てに流しそうになる。 
 これは、作者が一貫してかかえてきた父親像が音を立てて物語のなかに流れ出した結果かもしれない。かといって、小説に語られたエピソードのいくつかが事実の通りでも、金俊平のモデルになった人物がこの通りの行動をしたかどうかの詮索は無用である。注目すべきは、この男の徹底した反社会性であり、その結果としての絶望的な孤独である。彼は家族に疎んじられるばかりか、在日社会にも安息の席を持っていない。彼の名は金俊平。彼のような朝鮮人は自民族の作家によってすら充全には描かれてこなかったのである。
 梁石日が元タクシードライバー作家というイメージで出立した当初、その本質を読み取れずに、梁の風俗小説的な上すべりを懸念する生真面目な評価があったと記憶する。それはたんにそうした論者自身の狭量を示すにすぎないのだが、残念ながら、『血と骨』への横一列の絶賛という事態にあっても、現象的な浅い読み方は払拭されてはいないようだ。しかし最初から梁石日が背負い、また一貫して背負っていかざるをえない狼執とは、無頼なアウトロウとしての自己をいかに言葉のなかに解き放ってやるかという衝迫であった。無頼の人生を送った者への鎮魂である。こうした在日朝鮮人の特有なタイプの造型こそ、梁石日以前の在日朝鮮人文学に徹底して欠けていた要素なのだった。
 「金俊平はわたしである」と断言できるほどに、作者は主人公に一体化した。それまでの小説において梁は、父親像を距離をおいて呈示するにとどまっていたともいえよう。もともと梁石日は己れの無頼を、無造作に客観化しうる稀な作風に恵まれていた。その突き放した視線が、『血と骨』にあっては、父親の像まで達している。かんたんに図式化すれば、作者は己れの無頼を透視する強靱な視角を、自らの対象視点を突き破って、父親像にまでついに摘要することができたのである。それが一人の在日朝鮮人作家による父親殺しの深層なのである。
 そしてまたわれわれは、この父親像が在日朝鮮人文学において最も看過されてきた(意図的にであるか、結果としてであるか問わないにしても)朝鮮人のタイプであったことを、遅れて知った。
 論者は、梁石日が在日朝鮮人文学における根底的な革新者であるという礼讃をしたいわけではないし、するつもりもない。その種の意見は、不正確であるのみでなく、不誠実でもある。『族譜の果て』は最も苦しみにみちた作者の代表作でもあるが、同じ評価軸において、典型的な在日朝鮮人文学の要素を折り目正しく備えた作品の系列に並べることができる。梁の作品的軌跡に、他の在日朝鮮人作家と根本的に異なる表象を見つけようとする試みには無理がある。ただ『子宮の中の子守歌』のような、無頼の浮遊感を何の留保もなく提出した作品には、特異な個性と評価する他ないにしても。
 要するにいえることは一つだ。梁石日は、従来の在日朝鮮人文学の型を大幅に変革する要求を顕にして書きつづけてきたわけではない。むしろその型の遵奉者でありながら、その限界に向かって個性をきわだたせてきた、といえるだろう。そのいちばん重要な点とは、無頼の朝鮮人を初めて小説に登場させたことだと思える。どこにでもいる人間タイプであるにもかかわらず、小説からは排除されていたようなキャラクター。それを梁石日は、無造作な自然体で小説に持ちこんだ。
 こうした闊達な作風、悪くいえばじつに暴力的な作法は、いかにして作者のものになったのか。『修羅を生きる』には、次のような一節がある。《この頃の私は犯罪を犯してもおかしくない状態だった。金になる話であれば、どんなことでもやっていたかもしれない。(中略)追い詰められた人間のエゴは、もっともいびつな形で表出してくるのだ。自分がわからなくなるだけでなく、人間的ないっさいの感情を失ってしまうのだ》
 梁石日が強いられたテーマとはこれであった。救済されざる人間。日本的な市民文学からも在日朝鮮人文学からも遠く隔たった極限の人間像。植民地人という一般的タイプに還元されることのない人物像。非常に図式的にいえば、『血と骨』は二代つづいたアウトロウ父子の個人史を「モデルにした」小説である。作者が己れの父と己れ自身を供物に捧げて、そのことによって初めて成り立った作品である。子は、己れの修羅をつくづく凝視した果てに、父親を理解するにたる燭光を得たのだろう。作家は、何度も書き、試みては到達できなかった父親殺しという懸崖に、自らの恥部を抉りだすという方向から捨て身に迫っていった。
 金俊平は差別ゆえに制度から疎外されたが、個人の力ではいかんともしがたい疎外を、個人的にはもう少し軽減できたかもしれない。差別に抗議しても単純にその人間タイプは反差別につながっていかない。彼の叫びは、日本社会から排除されるだけではなく、在日朝鮮人(南北どちらの祖国に規範をおこうとも)正統のモラルからも忌避されるだろう。余計者なのである。こうした周縁的在日朝鮮人を描くことが、作者のカルマであった。そして彼がそのカルマを言葉の側にねじふせえたという事実が、『血と骨』への最終的な評価につながっていくだろう。


 在日朝鮮人とやくざの関係についての定説はない。けれども差別社会がアウトロウを生産するという論議は折にふれ浮かびあがってくる。いうまでもなく、やくざは反体制集団ではない。国家に公認されない武装集団としては唯一のものでありながら、戦後史のいくつかの局面では、寄生階級としての政治性を時の権力によって利用されてきた。その寄生性は、暴対法施行以降の現在にあっても基本的に変わらない。利用しつくしたあと撲滅を謀ろうとする政策にもかかわらず、やくざの成員は減少をみていない。
 基本的には差別温存を変えることのない戦後日本社会にあって、やくざ構成員の少なからぬ部分が、在日朝鮮人や部落出身者によって占められるとは、よくいわれる意見である。しかしなかば紋きり型のように使われる、こうした議論こそ、じつのところほとんど解明されてこなかったダークサイドではないのだろうか。警察庁発表によるやくざの構成員および準構成員の総数は約八万三千人(一九九九年末の調査)、この数年だいたい横ばいの数字だ。暴対法は構成員を減らす方向ではまったく成果をあげていないわけだが、それはとにかく、この調査に構成員の出身階層、民族に関する項目はない。調べがつかないと判断したほうがいいのかもしれない。
 戦後史のいくつかのターニングポイントにおいて、在日朝鮮人やくざのエピソードをつづったものは散見するが、それを民族性の観点から追跡した試みは、論者の知るかぎりほとんどない。
 その事実は、戦後史のダークサイドを語るとともに、戦後在日朝鮮人史のダークサイドのありかをも疑問の余地なく示しているだろう。例えば、朴慶植の『解放後在日朝鮮人運動史』という書物がある。これを例にもってくるのは、典型的な歴史書だという理由であって、価値をおとしめる意図は毛頭ないが、ここに記された歴史はあくまで政治運動に身を捧げた者らの軌跡に限られるものだ。制度から外れた者たちがこうした照明に恵まれたことはないし、それが当然とみなされてきた。ましてや寄生暴力集団に身を投じたやくざの生などは語られる価値すら認められなかったのだろう。
 かつて広域暴力団の代名詞ともいわれ、「殺しの軍団」の異名も持った柳川組は、幹部を在日朝鮮人で固めていたことで知られていた。初代組長の柳川次郎は本名を梁元錫という在日一世。二代目組長の谷川康太郎は本名を康東華という在日二世。柳川組は、現在でも日本最大の組織である山口組の二次団体であり、その「全国制覇」の先頭に立った。「殺しの軍団」のイメージはその過程でほぼ定着した。黒シャツを着て大阪天満橋あたりをのし歩き「マテンの黒シャツ」と恐れられた柳川をモデルにした劇画に『戦後水滸伝』(猪野健治原作、鳥居しげよし画)がある。
 六十年安保闘争にあって、やくざを私設機動部隊として利用しきった支配勢力は、以降の十年を徹底したやくざ弾圧政策にあてた。そこでも警察庁による標的として先頭に立たされたのは、柳川組であった。結果的には、追いこまれて解散声明を出すにいたるが、一時期の柳川組は解散指令にも昂然と挑戦しつづけていた。しかし親団体の許可なく解散したという理由によって、柳川と谷川は山口組から絶縁処分を受ける。絶縁とはやくざ社会において、死の制裁と同等の、死刑同様の処分である。このエピソードは、犠牲を二次団体のところで食い止めることによって生き延びた山口組の組織力学をよく示している。谷川康太郎は解散指令に抗っている時期に次のように書いている。

  ヤクザ社会――ほんとにアホな社会です。なかなか割り切れない要素が、たくさんあります。
  小学校さえ中退して、何の学もない私には、ヤクザは最高の「職業」であると、心から思いこんでいましたし、やるからには「仁侠道」を徹底的に貫き通して行こうと決意を固めたものです。
  ヤクザというものが、いまの日本の社会では異端者であり、あるべき姿でないことは十分に承知しております。しかし、私と同じように、ヤクザを志願する若者たちは多い、というのも事実です。

  (中略)
  柳川組は、現在、警察当局から非常な弾圧を受けております。「柳川組には思想もなければなにもない。 無頼の徒の集まりにすぎない」という見方もあるようです。
  しかし、私はへこたれません。私がここでへこたれたのでは、「やっぱり柳川組は悪の集団でしかなかった」と言われるのがおちでしょう。

 これは「人われを“殺しの柳川組”と呼ぶ」と題され、週刊誌に掲載された谷川自身の手記による引用である。谷川は、わりとマスコミの脚光を浴びることが多い人物だった。
 ここで注意を向けておきたいのは、在日二世としての彼のメンタリティである。これは一人の暴力団組長の恐ろしげな肉声以上のものとしては受け取られてこなかったのだろうが、日本文学の興味対象にならなかったことは仕方ないとしても、在日朝鮮人文学がこうしたモデルケースを少しも利用しなかったことは不思議といわざるをえないだろう。
 猪野健治は『やくざと日本人』において、谷川の語録をそのインタビューから拾っている。

  ドストエフスキーの『罪と罰』は所詮インテリ用。 精神的遊戯だ。ラスコリニコフは、金貸しを殺しても、 学問をきわめ、社会をよくするためにつくせば罪は解消すると考える。そんなことを書いてもらっても、飢えた人間は満たされぬ。
  わたしにはカネも地位も名誉もなかった。ソーニャのような女性もいなかった。しかしそういう状態のなかで「なにもないこと」の強さを身をもって知った。

 柳川組の直系組員は、最盛時で、千八百人余り。主要幹部は別として、在日朝鮮人の比率は三割程度だった(飯干晃一『実録柳川組の戦闘』による)。
 個別の例にこだわってみたが、柳川組という集団にしても、それを誇りをもって語り継ぐ作法は、日本人の側からも、ましてや在日朝鮮人の側からも、ほとんど生まれてくる可能性はないと思える。しかし制度から外れた者の物語は常に必要とされている。アウトロウ物語が、制度にたいして無条件に従順な市民社会にあって、一定の人気を保っていることは否定できない。ネガティヴな意味合いでは、市民社会はその従順さに比例して、己れには不可能なアウトロウ性を物語に求めるのだろう。


 戦後五十年の総括は、在日朝鮮人の経験の総体をはたして在日朝鮮人文学が担うことができるのか否か、という問いに帰着するだろう。答えが否定的なものであっても、われわれ日本人には高みから判定するような権利はない。一国の文学がその民族体験のすべてを包括することはありえないともいえよう。特にこの国の近代文学史は、そもそも文学が民族体験のうちごくささやかな位置しか持ってこなかった歴史を教える。それがわれわれの伝統だったのである。在日朝鮮人文学を日本文学の一項目ととらえるなら、このものもそうした負性の伝統と無縁ではありえないわけだ。しかし在日朝鮮人文学とは、日本社会と在日社会とのそれぞれ特有の狭さに規定され、限定された産物だった。二重の疎外によってこのものは日本文学の規範を脱する質を備ええた。
 マイノリティ文学がその周縁性ゆえに豊かな世界文学性を持つといった事態は逆説ではない。二重の疎外によって付与された力が先進国文学には求められない根源性にみちていることは常識に属するだろう。
 『血と骨』の読解は、ひいては梁石日文学の現時点における認識は、在日朝鮮人文学にも空白の領域があったという発見にいたる。作者は己れの無頼を底まで抉りだすことによってのみ父親の像に迫ることができた。こうした父親殺しの題材は在日朝鮮人文学に固有のものであったが、それは梁石日によって一つの区切りをつけられることになった。
 われわれの歴史にはいまだ語り残された項目があることを、『火山島』と『血と骨』という二作品は、疑問の余地なく示した。そしてまたそのことは、語り尽くされたという想いよりも、語り残された未知の頁を示唆する衝迫にわれわれを進ませる。われわれは同時にそして在日朝鮮人文学の終焉に立ち会わされているような厳粛さにも包まれるのである。

ユリイカ2000.12

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