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小田実『河』について

小田実『河』について

 小田実が『河』の途上で逝った。足かけ九年の雑誌連載、九十章六千枚の大長編は未完のままに遺された。結末にいたる水路は、現行においても、必ずしも不透明ではないが、なまなかな予測は慎むべきだろう。大河小説『河』は、途中で途切れてしまった。
 ブラック・アメリカの詩人ラングストン・ヒューズの有名な詩に「ぼくは多くの河を知っている」がある。「多くの河」のもとの原語は、端的に、複数形のリヴァーズだ。小田の河はビッグ・リヴァーだろう。単数であれ複数であれ。十一章に主人公の少年がいう科白――「大きな河が流れています」。これは、この小説を一言で要約するにふさわしい言葉だ。ビッグ・リヴァーは、作者の手を離れ、まだ流れつづけているが、書物は三冊で閉じられてしまった。
 小田の作品軌跡では中期に属する連作短編集『海冥 太平洋戦争にかかわる十六の短編』のキーワードは「海」だった。小田は連作の一篇とあとがきにおいて、一つの詩に託して、「太平洋がわたしに語ったことを」、「流民の群れ」の「語り部」として書きつづけるのだと、自らの立場を――彼はいつも自らの立場と創作意図を表明しすぎるくらいに表明してやまなかったのだけれど――鮮明にした。その詩とは、レバノンの詩人アドニスの「ある老いたイメージの章」の一節で、元は「ユーフラテス河はぼくに語った」となっている。河を海に翻案したのだった。『河』は、『海冥』のキーワードを海から河へと、アドニスの元の詩にもどす方向を取っている。大河の語ったことを語り部として伝える方向に。
 『河』は、しかし、流民の物語ではない。現代史の、二十世紀前半の、革命の物語だ。いっそういえば、「未だ成らない」革命が自己実現に向けて苦しみの胎動を繰り返していく過程を、時代の証言者の観点から微細に報告する希望の物語だ。河が流れてやまないかぎり、物語は悠久に語りつづけられるはずだ。
 ただこの小説を遺作と受け止め、ここに一人の作家の完結像をみるという評価はいかがなものだろうか。作品の細部に立ち入る前に、その点を片づけてかねばならないような気がする。『河』は歴史ロマンではあるけれど、ロマンの側面は大幅に抑制されている。むしろ、革命の現場証言をかきあつめ報告していく歴史観念小説ロマンの感触が強い。主人公の少年は行動に投企していくより、証言者に徹しようとしている。こうした基調に、小田の「何でも見てやろう」精神の持続を見つけるのはたやすい。作家の像は、半世紀近く以前の初期著作と共通する姿勢を発信して、「幸福な完結」を描いたと解釈される。
 ――それでは困るといいたいのだ。
 小田の文学は完結したのだろうか。いや、そもそも完結像への希求が小田の文学にはあったのだろうか。否である。
 あくまで小田は途上で逝ったのであり、作品世界を究めて、一定の大悟の高みに達したのちに生命を終えたのではない。『河』は、行きがかりから作品リストの最後に置かれてしまったとはいえ、作家の最高頂点とはいいがたい。この「後に」、いくつかの作品を想像させずにはおかない、という意味でのみ畏怖にみちた作品なのである。
 小田の五十年を超える文学的営為において、未完のまま途絶した作品は、むしろ少ない。『河』を含めても、三作くらいだろう。小田のような、常に雄大すぎる構想を自己に課して書きつづけるタイプとしては、珍しいといえるかもしれない。若年の頃から精力的に実行されてきた「全体小説」は、つねに強固な作品求心力を求められただろう。
 この小文で一人の書き手の履歴を手際よく整理することは難しいが、一般に、どんな作家であれ己れの世界を深め豊饒化させた(もしくは、そのことに失敗した)後は、ゆっくりと収束に向かっていくものだ。円熟、枯淡、衰弱。どういってもほぼ同じことだが、安息の位置を確保してから、生理的にも精神的にも終末期を受け入れていく。これは、小田をその直系とみなせる戦後文学派作家にも、例外なくいえることだ。椎名麟三、花田清輝、平野謙、武田泰淳、埴谷雄高、それぞれの個性はあってもすべてそうだ。狼疾にも似た模索を止めなかったのは、わずかに野間宏くらいだろう。
 小田には老境は訪れなかったような印象がある。
 後期の中編『玉砕』の、イギリスでのラジオドラマ化にさいしてのインタビューで、小田は語っている。《私は七三歳だ。しかし私はまだまだ非常に若いと考えている。変革すべき世界はまだまだ若いのだから》と。こうした思考にたいして、作者の生命活動がその後二年で途絶えたとかいう姑息な後智恵をはたらかせても、ほとんど空しい。
 晩年はなかったのである。もともと文学とはそういうものだ。いつまでも未成熟に青く、たわわな蜜いっぱいの果実を実らせているが、その果汁は苦くぴりぴりと舌を刺すのだ。
 かなり大ざっぱにいってしまうと、戦後五十年、阪神大震災の年を境い目にして、小田の文学活動(小説家としての創作活動にかぎるという意味だ)は、量的にも質的にも圧倒的な多産をみせた。被災体験とそこからの思索は、生なかたちでは『被災の思想 難死の思想』に詳しい。小田のなかで「難死の思想」の少年が半世紀を超えて蘇えった。こうした蘇生は個人的体験としてみると悲劇的だが、文学的には正当だ。回生が文学史の上で例外に映るとすれば、それは(哀しいながらわれわれの)日本文学が決定的に貧しいからである。このような貧しいフィールドに小田の居場所はなかった。これからもないような気がする。
 『河』は、「大正十二年」の関東大震災から始まる。小説の進行は、その後の数年、中国革命の溌剌とした前半期の一部と併走していく。時期を注記しておけば、横光利一『上海』と黒島伝治『武装せる市街』のあつかった背景のはざまに位置する。
 朝鮮人革命家を父に持つ混血の少年はその渦中での目撃者でありつづける。彼の愛読書は『ハックルベリー・フィンの冒険』なのだが、『河』そのものは少年小説とは最も遠い。十代前半の少年の精神的成長を描く冒険物語ではない。少年はしばしば、作者自身であり、作者が時代を「目撃」するためにつくった作中の報道装置だ。彼が複雑に流動してやまない革命論争を聞き取っていく能力は少年の頭のレベルをはるかに超えているのだが、そこはリアリズム小説の制約にあるわけではない。
 神戸、上海、広州、香港、京城。舞台は移り、少年は、革命以前の社会の多数のマージナルな難民たちと出会っていく。祈りのように語られ、また語りつづけられるアジア民衆のインターナショナリズムへの希望。こうした側面において、『河』には、たしかに小田文学の雑駁な雑踏といった情景の集大成は詰まっている。しかし途上だ。途上で、ふいと立ち去ってしまったというのも、小田にふさわしい振る舞いだといえばいえるが、やはり、遺作とは受け取れない。受け取りたくない。

週刊読書人2008.9.19

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